■2021年10月13日(Wed) 役者 151
 井上ひさしは日本が世界に誇る劇作家です。その井上さんが「作文の秘訣」としてこう発言しています。「作文の秘訣を一言で言えば、自分にしか書けないことを誰にでも判る文章で書くということだけなんですね。」(「井上ひさしと141人の仲間達の作文教室」新潮文庫)。この言葉の意味を戸田智弘氏が次のとおり解説しています(「学び続ける理由」)。 「自分にしか書けないことを(書く)」とは<自分と文章の関係>であり、「だれにでも判る文章で(書く)」とは<文章と読者の関係>である。<自分と文章の関係>が良好であるとは自分の身体と心と文章の間がしっかりと繋がっているということだ。<文章と読者の関係>が良好であるとは文章と読み手の心がすんなりと繋がることだ。こういう関係が成り立てば自分の中の感情や思いや考えが文章に乗り移り、それが読み手の頭や身体の中に入り込んでゆく。文章という「仲人」を通じて自分の心と読み手の心が繋がることになる。
 弁護士が「自分にしか書けないことを書く」とは「依頼者と文章の関係」であり、「だれにでも判る文章で書く」とは「文章と裁判官の関係」です。依頼者と文章の関係が良好であるとは依頼者の心と弁護士が書く文章がしっかり繋がっているということであり、文章と読者の関係が良好であるとは弁護士が書いた文章と裁判官の心がすんなりと繋がるということです。この良い関係が成り立てば依頼者の心や考えが弁護士の文章に乗り移り、それが読み手たる裁判官の頭の中に入り込んでゆくことになります。法的な文章を書く弁護士を通じて依頼者の心と裁判官の心が繋がることになります。これをインプット・アウトプットと表現するときもありますが弁護士の仕事は単なる「情報処理」ではなく感情を含んだ「演出」(ドラマツルギー)という色彩を有しています。依頼者の心が自分の文章に乗り移り、読み手である裁判官の心に入り込んでゆく。そんな「良い舞台」を造っていきたいと私は考えています。
■2021年10月08日(Fri) 学者 151
 イギリスの詩人ウイリアム・クーパーは次のように語っています。「知識と知恵は同じものでないどころか、しばしば何の関係も無い。知識は他人の思想が詰まった頭の中にあり、知恵は自らを注意深く見つめる心の中にある。知識は<自分はこんなに多くを学んだ>と誇り、知恵は<自分はこれしか知らない>とへりくだる。」
 そう。「知識」と「知恵」は全く別の働きをします。アリストテレスの議論を想起しましょう。彼は「徳」(アレテー)を次のように分類していました(学者12)。1知性的徳(経験と時間を要する教育の成果)イ学問的部分(エピステーモニコン)ロ考案的部分(ロギステイコン)@技術(テクネー)A実践知(フロネーシス知慮)2倫理的徳(社会生活上の習慣の産物)。その中でアリストテレスは特に上記1ロA(知慮)と2(倫理的徳)に重点を置いていました。必ずしも自分の思ったとおりに動くわけではない他人との共同生活を行うに当たって必要なのは「知識」(一般的抽象的な学的認識)ではなく「知恵」(個別具体的な実践知)と習慣により形成される「徳」(人柄)です。何故ならば両者は「全く何の関係も無い」どころか状況如何によっては「全く逆方向で作用する」場合すら存在するからです。
 弁護士が仕事をしていくために「知識」は不可欠です。これがないとプロとしては失格です。どんなに人柄が良くても、知識が無いと法律実務は出来ません。法的な知識が欠落した弁護士は現場で全く使い物にならないのです。しかしながら「知識」だけでは絶対にダメです。何故ならば実務法曹の仕事は多くの方々との共同作業であり良質の「知恵」(個別具体的な実践知)と習慣によって形成される「徳」(人柄)が求められるものだからです。多くの他人との協同を可能にする知恵を兼ね備えた上で「自分はこれしか知らない」と謙虚に自己反省しながら、新しい「知識」を学び続ける意思と努力が弁護士には求められているのだと思います。
■2021年10月04日(Mon) 医者 151
 土居健郎「新訂・方法としての面接」(医学書院)に次の記述があります。
 我々が初めて経験する事柄について、したがって馴染みがないはずのものについて「わかる」とか「わからない」というのは何故であろうか?初めて経験したものでも「わかる」という場合は、それが前もって馴染んでいたものと同類であると認識できるからであり「わからない」という場合はそれが前もって馴染んでいたものと異質であると認識するからである。(略)簡単にわかってしまってはいけないのである。言い換えれば、何がわかり・何がわからないかの区別が判らねばならない。(略)本当にわかるためには、まず「何がわからないか」が見えてこなければならないと言って良いであろう。(27頁以下)
 弁護士も経験を積み何度かやったことがある事案は自信をもって「判る」と言えるものです。他方、やったことが無い・初めて経験する事案あるいは馴染みがない事案については「判らない」はずです。しかし、年季を積んだ弁護士は、直感で何とかなりそうな事案と全く無理そうな事案の区別が付きます。この「判る」(出来そう)とか「判らない」(出来そうにない)という感覚を峻別するのは何でしょう?初めて経験するものでも判る事案はそれが前もって馴染んでいた事案と<同類>であると認識できるからであり、判らない事案はそれが前もって馴染んでいた事案と<異質>であると認識するからです。もっとも、前にやった事案と似ているといっても事案の内容が異なる以上は簡単に「判った」と言ってしまってはいけないのです。言い得るのは「判らない訳ではない」ということであり、その後は事案を「判る」ための努力が必要になります。おそらく、判るための努力が比較的に少なくて済む状態をたぶん「判る」というのです。これに対して、相当の努力をしてもプロとして一定の理解レベルに達し得ない状態を「判らない」というのでありましょう。