■2018年12月01日(Sat) ちょっと寄り道(御堂筋歴史散歩)
 大阪に出向く用件がありましたので早朝の御堂筋歴史散歩をしてみました。御堂筋は現代大阪を語るときに不可欠の幹線道路です。御堂筋は「南へ歩く」のが正しいとされているのでキタ(梅田)からミナミ(難波)まで約4キロ強の道を歩いてみることにしましょう。
(参考文献 西村幸夫「県都物語」(有斐閣)、高橋泰郎「大阪堂島米市場」講談社現代新書、本渡明「大阪古地図むかし案内」創元社、栗本智代「大阪まち歩き」創元社、橋爪伸也「大大阪モダン建築」清玄社、「大大阪の時代を歩く」洋泉社、中沢新一「大阪アースダイバー」講談社、司馬遼太郎「街道を行く夜話」朝日文庫、吉村智博「かくれスポット大阪」解放出版社)

 私の年代の者にとって御堂筋といえば何といっても欧陽菲菲が1971年に発売した「雨の御堂筋」である。本町・いちょう並木・ミナミ・梅田新道・心斎橋などの言葉をちりばめた歌詞にベンチャーズが作曲をした。オリコン1位を連続9週間も獲得し、売上は136万枚を記録した。私は当時9歳であったが、大阪という大都会のイメージを与えられた強烈な印象がある。
 現在の御堂筋は大阪駅と難波駅を結ぶ大動脈である。長さは約4・27キロメートル、幅は約43・6メートルもある。しかしながら、大正以前の御堂筋は全長1・3キロ、幅6メートルの狭路に過ぎなかった。他の筋とさほど変わらない普通の道路だったのである(当時の主たる南北動線は堺筋であった)。大阪は秀吉の時代から基本的に格子状区画である。南北の「筋」と東西の「通り」があり、東西の通りのほうが重視されていた(代表的な通りが「高麗橋通り」である)。文楽に於ける「とざい、とうざーい」という独特の東西声によるオープニングに大阪の地理感覚が表象されている。御堂筋は、この東西重視の市街地に突如として現れた南北の広路である。大阪駅付近と難波駅付近には現在も複雑な街路が残る。これは鉄道開設時の街の外に2つの駅が創られたことを意味しているのである。
 大阪駅の地名を「梅田」という。田畑池沼を埋めた地であることから埋田の名が起こり、後に梅田となった。明治時代当初は寂しい場所であった。この地に明治7(1874)年、大阪駅が開業する。さらに明治39(1906)年に阪神、明治43(1910)年に阪急が開業すると梅田は広域地名として一気に広まった。大阪駅構内には段差が多い。地盤沈下によるものだ。大阪駅が高架となった昭和9年から目立ち始め、最大1・8m下がった箇所もある。不等沈下により線路が急勾配になり列車の運行に支障をきたしたこともあるという。
 大阪駅の玄関である南口を出る。正面に見通しの良い幹線道路が無い。視線はいきなり遮られその奥に迷路の如き五差路が存在する訳の分からない構造になっている。田舎から出てきた者は「何故に大阪という大都市の中央駅の前がこのような状態なのか」が判らない。
 道を渡り「お初天神」に参拝する。正式には露天神社(つゆのてんじんしゃ)という。元禄16(1703)年、この境内で実際にあった心中事件を題材にして近松門左衛門が創作したのが人形浄瑠璃の「曽根崎心中」。神社はヒロインの名前「お初」にちなみ「お初天神」と呼ばれるようになった。恋愛の成就を祈る神社として現在も若い女性に人気があるらしい。
 道を戻って左斜めに進む。巨大な「梅田新道」の標識が目に入る。現代大阪の道路起点とされている重要な場所である(国道1号線・東京、国道2号線・門司、国道25号線・四日市、国道26号線・和歌山、国道163号線・伊賀上野、国道176号線・宮津)。
 ここを南下すると曽根崎新地。「キタ」を代表する繁華街だ。曽根崎通(国道2号)以南の曾根崎新地1丁目・堂島1丁目・堂島浜1丁目に展開する。東京における銀座新橋に匹敵する。官公庁や大企業本社が集積する中之島から近いため、クラブや料亭など高級料飲店が集中する。風俗店・パチンコ店は皆無。庶民で賑うミナミと性格を異にする街である。通りが微妙に曲がっているのは旧曽根崎川に沿って街が形成されたためだ。
 東に歩くと裁判所(大阪地裁・高裁)への通り沿いに「変電所」が見える。地図には「大阪市交通局曾根崎変電所」と書かれている(隣に関西電力の曾根崎変電所がある)。この建物は地下鉄御堂筋線のために設置された変電所のようだ。昭和11年の竣工という。
 「堂島」は江戸時代の米市場だった。米の売買は蔵屋敷に仲買人を集め入札制度で行なった。江戸時代において大阪は既に金融業の基本を確立しており「米切手」(発行元の大名に提示すれば1枚1石の米俵と交換できる証券)が流通していた。先物取引の性格を持つ市場流通性の高い「先納切手」、米価変動リスクをヘッジする「帳合取引」など近代的金融技術の原型が次々に生まれ、大阪に安定した米殻商業機構をつくる牽引役となった。全国の米関係者は将来の米価の動きを予測するために、大阪の帳合米価格から目を離せなくなっていた。米切手が全て現実に交換されるわけではないことを知っていた人々は在庫米を超えた米切手を発行した。が、在庫米を超えた米切手を発行すると債務不履行の危険を負うことになる。財政的な苦しさから過剰な米切手を発行して債務不履行責任を問われた大名が広島藩浅野家・萩藩毛利家・佐賀藩鍋島家そして我が久留米藩有馬家(筑後蔵)である。
 寛政3年6月7日、筑後蔵は大阪米市場関係者一同に対し米蔵出しの延期を願い出た。筑後蔵による延期願いはその後も繰り返しなされ、同月21日総勢54名の米商人が米切手と蔵米の交換を求め大阪町奉行所に出訴した。筑後蔵に対し出廷が命じられ翌22日事情聴取が行われた。7月8日まで原被告間で和解協議が行われ7月9日に原告所持の米切手(8万5830俵分)の蔵米請求権が尊重される形で和解が成立しているという(高槻泰郎「大阪堂島米市場」講談社現代新書を参照)。トホホ。
 かような市場としての大阪は豊臣政権時代に形作られたものだ。この大阪の特権的地位は徳川幕府によって継承され豊臣期以上に大切に扱われた。大阪人は秀吉を街の祖のように懐かしがるが後に続いた徳川幕府が大阪に与えた制度上の恩恵とそれによる賑わいこそが大阪の街の人と性格をつくったとされる(司馬遼太郎「街道を行く夜話」179頁以下)。

 堂島川にかかる「大江橋」を渡る。大正13(1924)年に淀屋橋とのセットで公募されたデザインで架設工事が開始された。昭和10(1935)年、淀屋橋と共に完成している。
 大江橋を過ぎると「中之島」。江戸時代に全国の藩の倉屋敷が置かれた所である。
 江戸期の中之島は全国から物資が集まり売買される活気に満ちた場所であった。蔵屋敷はいずれも舟入(入掘)を設け蔵元からの舟を横づけにして荷物の陸揚げ積込みを行なった。久留米藩蔵屋敷は現在の大阪大学キャンパスイノベーションセンターにあり、掘に架けられた橋は久留米橋と呼ばれた。他にも熊本橋、高松橋、鳥取橋等、その藩の舟入に架けられた橋があった。米は秋に収穫が終わると大阪に送られる。外航船で港に届き、上荷船・茶船という小船で中之島蔵屋敷に届く。土佐藩のかつを節・福山藩の畳表・徳島藩の藍玉など全国の物資も集まり華やかな活気に溢れていた。売買は町人が請け負い、町人蔵元と呼ばれた。町人蔵元は輸送手段や保管手段を持ち、自己の責任で損益を負担していたという。
 現在の中之島には公共施設や大企業の巨大ビルが集積している。
    1丁目 大阪市中央公会堂・大阪府立中之島図書館・大阪市役所
    2丁目 日本銀行・三井物産ビル・朝日新聞大阪本社
    3丁目 フェステイバルタワー・住友ビル・三井ビル・関電ビル
    4丁目 大阪大学イノベーションセンター・国際美術館・大阪市科学館など。
 現在の中之島で印象的な建物を時代順に古い方から3つ取り上げることにしよう。
 「日本銀行」 明治36(1903)年竣工。設計は辰野金吾・葛西萬司。東京の本店ほどではないが日本の中央銀行らしい重厚感を漂わせている。昭和46年頃近代的ビルに立て直す計画が持ち上がったが市民の反対運動で取りやめになった。昭和50年からの改修により隣に6階建ての新館が建てられて旧館の外観保存が実現した。旧・五代友厚邸である。
 「大阪府立中之島図書館」 明治37(1904)年竣工。設計は野口孫市。住友本家第15代住友吉左衛門の寄付金20万円により建築された(図書購入費を含む)。野口は辰野金吾の弟子に当たる。師匠の立派な銀行建築が見える所である。弟子野口が師匠辰野に負けないよう頑張って建築工事を指揮した姿が目に浮かぶ。
 「大阪市中央公会堂」 大正7(1918)年竣工。設計は岡田信一郎。株式仲買人・岩本栄之介は大阪に公会堂がないことを痛感し、公会堂建設のため100万円を市に寄付した。岩本は完成をまたず株の失敗から自ら命を絶つ。大正デモクラシー時代、様々な催しが開催された。2002年に大規模改修工事が完了。何処から見ても絵になる秀れた作品である。
 明治末から大正にかけて中之島は新たな文化都市建設の実験場といった様相を示す。中でも目立つのは学校である。さまざまな学校が中之島に設立され、やがて他地区に移転していった。中之島は大阪における「新時代の人材育成機能」を担った地であった。前述した久留米藩屋敷は維新後に大阪師範学校の敷地となっていた。その後、中之島小学校・大倉商業学校を経て、大阪大学医学部付属病院が置かれていた(現在は移転している)。
 地下鉄の開通と御堂筋の完成によって、梅田と難波は緊密に繋がり交通量が増大した。中之島はキタやミナミと異なり、若い男女・子供・主婦などが暗くなってからも安心して歩くことができる文化ゾーンとなったのである(その象徴が図書館・公会堂・師範学校・大学)。

 「淀屋橋」を渡る。中之島を開拓した淀屋常案の名を冠して付けられている橋名である。江戸時代、淀屋が米市場の繁栄のため、自費で橋を架けたといわれている。現在の淀屋橋は、前述のとおり、昭和10年に大江橋と共に完成したものである。両橋の幅は全く同一である。
 南へ歩く。御堂筋を挟んで「日本生命ビル」・「住友ビル」が並んでいる。風格のある道路を歩きながら、少し<御堂筋の沿革>について考えてみることにしよう。
 現代の御堂筋は第7代大阪市長関一(せきはじめ)が提唱したものである。関一は東京商科大学(現在の一橋大学)で佐野善作学長と「どちらが学長になるか」と競う程の力を持っていた(2018年7月2日「国立歴史散歩」参照)。関は学生時代に卒業生総代となるような秀才だった。大蔵省に入省後、母校に戻り教授に就任。その後ベルギーとドイツに留学。このとき都市計画や社会政策を学ぶ。関は大阪市の助役に転出し、大正7年に市長となる。大阪の市政を引き受けたのは留学で学んだ「理論」を実際に「応用」したいという学問的野心もあったようだ。「緑の無い街は駄目だ」「下を向いて労働者の生活をみよ」というのが関の口癖であり、徹底して庶民の目線を大事にしていた。このような優秀な行政マンに恵まれた大阪市は幸運であった。関一は大正時代における富永仲基・山片蟠桃(江戸時代に批評精神と合理主義にもとづいて知的活動を展開した大阪の学者)のような存在であった。
 昔の御堂筋は全長1・3キロ(淡路町から長堀まで)幅6メートルに過ぎなかった。関は北の淀屋橋筋とあわせて約4・27キロ、幅43・6メートルという当時としては破格の広路を提唱した。用地買収に3000万円(今の100億円以上)を要した。国からの援助を期待していたが、世界恐慌や関東大震災で無理。そこで関は都市計画法の受益者負担制度を初めて導入し、昭和5(1930)年に着工した。軟弱な地盤のために工事は難航したという。昭和10年地下鉄御堂筋線が開通。昭和12年に道路が開通した。イチョウの並木が整然と植えられ、周辺のビルは美観を守るため100尺(約30メートル)に制限された。電線を地下に配したので空が広く歩道には街路灯も設置された。昭和5年から10年頃は世界的不況の時代であったので積極的な財政政策で有効需要を喚起するという政策的な意図もあったものと思われる。
 「大大阪」(だいおおさか)は大正14(1925)年に大阪市が周辺町村を合併した第2次市域拡張に際して使われた通称である。人口211万人。東京を抜き日本最大・シカゴに次ぐ世界第6位の都市となった喜びを表象する。大正12年の関東大震災の影響で防火性・耐震性を備えた最新の鉄筋コンクリート造の近代建築が多く作られた。昭和7(1932)年に市域を拡張した「大東京」の成立まで大阪は日本最大の都市でありモダン文化が花開いていた。40に及ぶ道路の整備・80もの橋梁の付け替え・多数の公園の整備・新しい運河の開削など合理性を貫徹する都市計画事業が次々と実行された。大大阪の市政は関の強いリーダーシップにより推進された。大阪城はこの流れの中で(第4師団庁舎とともに)市民の寄付金によって再興されたものである(2016年8月8日「ちょっと寄り道(上町歴史散歩)」参照)。御堂筋はかような「大大阪時代」を背景として建設され、現在もなお偉容を誇っている。
 この広路が完成したとき、通りの名を「御幸通り」とする動きがあったが、関は「この路には昔から御堂筋という名前がある。それに大阪の道路は南北は筋、東西は通りと決まっているではないか。御堂筋以外の名前であってはならない。」と即答し、異論を封じ込んだという。
 御堂筋の「御堂」とは北御堂と南御堂を繋ぐ道であることに由来している。
 北御堂と南御堂は浄土真宗の本願寺派と大谷派の違いに対応している。織田信長により石山本願寺(後の大坂城)を退去した顕如は、1591年に秀吉から京都に土地を与えられ、本願寺を再興した。しかし、石山退去に関する見解の相違により教団内部で対立が起こり、徳川家康は1602年顕如の長男教如に京都に土地を与え、教如が東本願寺を建てた。かようにして日本最大の宗教集団「浄土真宗」は西本願寺派と東本願寺派に分裂したのである。西本願寺の津村別院が「北御堂」で、東本願寺の難波別院が「南御堂」である。
 北御堂でお参りをする。リーフレットには「私を苦しめるのは私の心」との警句が書かれていた。有り難い、南無。南へ歩く。松尾芭蕉は南御堂門前にあった花屋仁右衛門(はなやにえもん)の座敷で1694年、10名の門人に見守られつつ51歳で亡くなった。座敷跡には「此附近芭蕉翁終焉の地」の碑がある。南御堂の境内には「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句碑がある。この句碑は1843年芭蕉の150回忌に建てられたものとされる。お参りして講座案内のビラを頂く。「人生に失敗がないと人生を失敗する」と書かれていた。南無。

 本町を通り過ぎてさらに南へ歩き「心斎橋」へ。御堂筋から一筋東の心斎橋筋商店街を中心に、百貨店・専門店・高級ブランド店などが集積する、大阪を代表する繁華街である。大阪商人には心斎橋に店を構えることを目標にする人が多い。昭和初期、モダン心斎橋を象徴したのが百貨店である。「大丸」は伏見の呉服店大文字屋が1726年に現在地に出店したのが発祥だ。本館は1922(大正11)年に教会建築家として名高いウイリアム・メレル・ヴォーリス設計により心斎橋側が竣工し、地下鉄開通にあわせて1933(昭和8)年に御堂筋側が竣工した(2018年10月1日「田中吉政の遺産1」末尾参照)。エレベータや喫茶店に昔のままの意匠が残る。大阪に残る近代建築の中でもこれだけ大規模で自由に見学できるものは稀である(橋爪)。改修時期に当たっていて本館の中に入れなかった。残念。
 南へ歩く。通り沿いに庶民には縁の遠い高級店舗が並んでいる。イチョウ並木と揃ったスカイラインの洒落たビル街が落ち着いた雰囲気を醸し出している。この筋から東側に一本道を入ると「戎橋」に至る。グリコの巨大な看板がまぶしい。毎日が祭りの賑わいである。
 ミナミは鉄道が通る以前から庶民が集まる町であった(キタと対照的である)。
 慶長17(1612)年、木津川に注ぐ運河の開削が始まり、元和元(1615)年完成した。この運河は当初は「新川」と呼ばれていた。当時の大坂城主・松平忠明が、工事を手掛けるも大坂夏の陣で戦死した安井道頓の名にちなんで「道頓堀川」と命名した。この川沿いに芝居小屋が立ち並ぶようになり、「中座」「角座」「朝日座」「弁天座」「浪花座」など「道頓堀五座」が集まる繁華街に発展した。やや南に下ると千日前。千日前とは、法善寺と竹林寺(現在は天王寺区に移転)にて「千日念仏」が唱えられていたので両寺(特に法善寺)が千日寺と呼ばれ、その門前であることに由来する。 大坂の陣の後、市内の墓地の整理により「千日墓地」と呼ばれる大規模な墓地がつくられ刑場や焼き場も併設された。死後の世界を司る空間であったので長いこと怖さを感じる場所だった(江戸における浅草・吉原・小塚原に相当する)。
 明治以降、ここにあった刑場や焼き場は廃止され墓地は阿倍野に移転した。移転後の公有地は売りに出されたものの、元墓地跡・元刑場跡ということもあり、なかなか買い手が付かなかった。そのため大阪市は10坪を入手した者に5円を灰処理代として援助したという。
 明治18(1885)年、阪堺鉄道が難波駅と大和川駅の間で開業する。難波は大阪市南部方面の鉄道ターミナルとしての歴史を歩み始めた。阪堺鉄道はその後「南海電鉄」となり、大阪府南部や和歌山県方面に路線を持つようになった。
 明治45(1912)年1月16日に難波新地4番町で出火した「ミナミの大火」によって、難波新地から千日前・西高津新地・生國魂神社あたりまでが焼失する。これを契機に当地の遊郭は移転することになった。焼け跡に大阪市電九条高津線敷設計画が持ち上がったものの、繁華街は低迷したままであった。ミナミ壊滅の危機に瀕した南海鉄道は近代的なレジャーセンター建設で復興の呼び水にすることを考え「千日土地建物」を設立し大阪興行界の実力者・山川吉太郎に声をかけた。活動写真館で役者をアイドルとして売り出す才能を有する山川は、南海の出資を得て、すべての娯楽を詰め込んだレジャーセンターを構想した。
 こうして造られた「千日前楽天地」は昭和5(1930)年に廃業となるが、昭和7年「大阪歌舞伎座」が誕生。千日前は娯楽商業の街として発展を遂げた。大戦の空襲により一帯は焼け野原と化すも、再び演芸街・飲食店街として復興を果たす。大阪歌舞伎座上階のアイススケート場は占領軍向け特殊慰安所(キャバレー)に改装され、朝鮮戦争に至るまで運営されていた。(なお、この後に出来た千日前デパートビルは、1972年に死者118名・負傷者81名という日本ビル火災史上最悪の大火災で焼失している。現在はビッグカメラなんば店。)
 昭和7年、4代目駅舎である「南海ビルディング」が誕生。百貨店「高島屋」が入る、ターミナルとして相応しい駅になった。昭和12年、ホームも高架に移された。現在もこの駅舎がその雄姿を留めており、登録有形文化財にも指定されている。素晴らしい。
 駅の東にある「吉本興業」は、なんば南海通になんば花月劇場を経営していたが、近隣に所在した自社の経営するボウリング場・駐車場並びに本社事務所を取り壊し、1987年「なんばグランド花月」を開場。以後、吉本新喜劇の本拠地となっている。

 地下鉄「なんば」駅から帰りの地下鉄御堂筋線に乗る。少しの間、考えごとをする。
 古代の大阪は上町台地で開発され発展した南北軸の街であった。その後、秀吉による土地開発によって東西軸が発達した。かかる大前提の上で、関一市長がリードした大大阪時代の御堂筋開設により「本来の南北軸が復活した」と表現することができる。
 蓮如の石山本願寺門前町(宗教都市)から出発し市場経済の要(経済都市)として発展した大阪には政治都市としての江戸(東京)とは異なる時間が流れていた。それが現代に通じる大阪の独自性を産んだ。しかし最近の大阪には(東京に対して)自己を卑下する感覚が生じており、あまり元気がないように見受けられる。本来の大阪は(商品先物市場に象徴される)合理性に貫かれたプライドの高い都市だ。市場経済の最先端を行きモダン文化の華が開いた大阪。その根底を支えたのは名市長・関一の徹底した「合理主義」である。
 大阪が面白いと思うのは、前述の合理性の観点を貫きながら、御堂筋の名を維持する「おかげさん」の意識が未だ庶民に浸透している点である。高い宗教意識を維持しつつ自分自身をも笑い飛ばす高い精神性が溢れている。私は大阪に対して「東京を高い次元から見下ろす感覚」を持つ対抗都市であって欲しいとの願いを有している。何も難しい話をしているのではない。庶民を騙そうとする政治的大都市・東京に対し「別の価値観」を対峙して欲しいのだ。国家権力の欺瞞を笑い飛ばす痛快な庶民感覚。それこそが大阪の良い所なのだと思う。
 考えているうちに電車は地下鉄東梅田駅に着いた。午前8時。これから仕事だ。(終)