■2018年10月01日(Mon) 田中吉政の遺産1
 (本稿は2014年9月12日にアップしたものですが「田中吉政公時代展」と「久留米ヒストリアカフェ」の議論・2018年9月の岡崎と近江八幡の訪問をふまえリニューアルしました。)

 江戸時代の初期、筑後一国を治めた武将が田中吉政です。治世が短かったので、筑後の人でも吉政を認識している人は少ないのですが、吉政は筑後全体を見据えて発展の基礎を築いた優秀な武将です。そこで、今回は吉政の生涯について時間を追って論及し、次回は吉政が筑後に残した遺産について具体的に検討したいと思います。
 (参考文献「秀吉を支えた武将・田中吉政−近畿東海と九州をつなぐ戦国史」(市立長浜城歴史博物館他)、中野等「柳川の歴史3・筑後国主田中吉政忠政」(柳川市)、半田隆夫他「トップの資質・田中吉政から読み解くリーダーシップ論」梓書房、田中健彦他「秀吉の忠臣・田中吉政とその時代」鳥影社など)


 田中吉政は、天文17(1548)年、近江国(現在の滋賀県)に生まれました。石田三成の出生地と極めて近く、2人は幼馴染であったようです。

 (2017年5月13日「田中吉政公時代展」展示資料より引用)

 吉政は浅井家の宮部継潤に仕えていました。浅井は長政の代に力を強め、急速に勢力を強めていた織田信長と婚姻関係(信長の実妹・市が長政に嫁ぐ)を築くことで支配を磐石にしました。永禄11(1568)年9月、上洛を果たした信長は足利義昭を室町幕府第15代将軍につけます。将軍の御所を建てた信長は元亀元(1570)年二条城の落成を祝いますが、この席に朝倉が来なかったことから信長と朝倉の対立が表面化。この結果、信長と朝倉の間に挟まれた浅井は板ばさみになり結果として浅井は朝倉家を選びます。挟み撃ちになった信長は窮地に立たされ京都に敗走。この騒動に巻き込まれたのが宮部など近江国の地侍たちです。後の「姉川の戦い」では浅井方として参戦するものの、その後戦況が膠着状態に陥ると、機を見た秀吉は吉政が仕える宮部を調略して織田家側に引き込みました(当時機を見て有力者に寝返るのは決して珍しいことではなかった)。この調略がその後の吉政の運命を決めます。吉政は織田家の家臣となったのです。天正元(1573)年、浅井の小谷城が秀吉軍の攻撃で陥落すると信長は秀吉を浅井が支配していた小谷城主とし、これに引っ張り上げられるように宮部は3100石・吉政は300石を与えられます。時に秀吉36歳・吉政26歳。秀吉の出世につられて吉政も出世の階段を登り始めました。
 天正9(1581)年、秀吉は鳥取城を落とし宮部に城代を任せます。宮部は5万石の領地を与えられ吉政は1500石となりました。吉政は信長・秀吉という天下人の権力構造にうまく入ることによって力を付けてゆき、秀吉の甥・秀次の宿老となります。
 こうしたなかで天正10(1582)年6月2日、本能寺の変が勃発。毛利と戦っていた秀吉はすぐさま和議を結び周辺の織田系武将に「信長の敵討ち」という名目で加勢を要請。これに応じた諸将の応援を得て山崎の戦い(天王山の戦い)に圧勝。この戦いに吉政も秀吉軍として参戦しました。織田家の今後を決める清須会議で秀吉が後継者としての地位を獲得した結果吉政の地位は飛躍的に上昇することになりました。
 天正13(1585)年、秀吉は関白となり(当時49歳)豊臣性を賜り豊臣秀吉と名乗りを改めます。同年四国を平定し甥の秀次(18歳)に近江八幡43万石が与えられると吉政は筆頭格家老(3万石)となりました。吉政は秀次代官として八幡山城で政務を取り仕切ります(秀次はほとんど京都に所在していた)。吉政は土木の専門家として八幡城下に堀を開削し、対岸に信長が築いた安土城下街を移し育成しています。天正10年に天下統一間近で死んだ信長の夢の跡は吉政によって引き継がれたのです。(Googlemap)

                   (近江八幡の古地図)
 吉政は5年間ほど近江八幡の街作りに邁進しました。近江八幡に残る掘割の街並を歩くと、柳川に似た独特の雰囲気を感じる方が多いのではないでしょうか。(ホームページ)

 天正18(1590)年、関東の北条氏を制圧して国内の覇権を確立した豊臣秀吉は諸大名の大幅な配置換えを行います。徳川家康は関東に転封され、織田信雄は下野烏山に減封されます。その結果として空いた尾張・清州城に豊臣秀次が入ることになります。小田原征伐で活躍した吉政には三河・岡崎に5万7400石の所領が与えられました。吉政は岡崎城を近世城郭に整備しました。城下の町割に7つの町を堀で囲む田中掘を築造しました。西側の低湿地の埋め立てを行い、岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下を通るように変更し「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の道に整備します。(Googlemap)(ホームページ)
 吉政は土木や農業に深い理解を示しました。洪水防止のため矢作川の堤防を築くとともに網状に広がっていた河道の1本化を図りました。近江八幡で培った土木技術の知識が岡崎で生かされたのです(この経験が後に筑後国の河川改修に生かされることになります)。

                       (岡崎の古地図)
 文禄4(1595)年、驚愕の事件が起こります。秀吉によって秀次が自害させられるのです。多くの秀次家臣も処分を受けました。しかし、吉政ら宿老にお咎めはなく、むしろ「秀次によく諌言をした」ということで2万8358石の加増、文禄5年には更に加増され、吉政は岡崎城主10万石の大名となるのです。吉政が連座を免れたのは当時秀吉に強い影響力を有していた石田三成が幼馴染であった吉政に有利な取り計らいをした可能性が高いと思われます。
(*岡崎は家康の出生地として江戸時代に神格化されていますが、「城下町岡崎」の基礎は約10年にわたる吉政治政下で築かれたものです。)
         
 秀吉の死後、吉政は家康に接近します。秀次を罰するとともに朝鮮出兵を強行した秀吉と石田三成に対する反感が吉政にあったものと推察されます。慶長5(1600)年9月の関ヶ原合戦において吉政は東軍に属しました。吉政は伊吹山中で逃亡中の三成を捕縛する大功を挙げます。捕縛される際、三成は太閤から給わった脇差しを吉政に授けたとされています(寸延短刀・石田貞宗:東京国立博物館蔵)。これは吉政が三成を手厚くもてなされた礼だと言われています。大功を挙げた吉政は慶長6(1601)年、家康から筑後一国(32万石)を与えられ、第1級の国持ち大名として筑後に入部することになるのです。時に吉政54歳。
 家康の処置の特徴として秀吉旧臣ながら家康に与した者への加増が指摘されます。肥後の加藤清正・筑前の黒田長政・土佐の山之内一豊、そして筑後の田中吉政です。これらは単なる加増ではありません。関ヶ原合戦後は関東(徳川)と関西(豊臣と朝廷)を結ぶルートの重要性が飛躍的に高まることが確実でした。それゆえ家康はこのルートに位置した者を中国・四国・九州に移動させたのです。尾張清洲の福島正則は安芸備後国へ、三河岡崎の田中吉政は筑後柳川へ、遠江浜松の堀尾忠氏は出雲松江へ、遠江掛川の山内一豊は土佐浦戸へ。数字上は加増ですが家康にとって都合の良い左遷でした。彼らの旧領地に家康一族や譜代家臣が配置されています。家康の政治家としての凄みが良く現れています。

 吉政は柳川を筑後全体の中心に置き領内の整備を図っていきました。何故吉政は(古代に筑後国の国府が置かれた)久留米ではなく柳川に本城を置いたのでしょうか?おそらく江戸初期においては未だ政治が安定しておらず軍事的観点が治世の根本にあったからだと思われます。蒲池氏下において戦いの舞台になるも落ちなかった柳川城は要害堅固であることが実証されていました。土木や農業に深い理解を示した吉政も、着任当初は軍事的関心を最優先せざるを得なかったものと考えられます。(Googlemap)
 柳川城は蒲池治久が蒲池城の支域として築き、その孫・鑑盛が本城として修築した城です(14/8/11「蒲池の姫君」参照)。蒲池が滅ぼされた後、豊臣政権下で立花宗茂が最初に支配した頃は規模が小さい城でした。吉政は城の周囲に広い掘をもうけ、これ迄の城に接してその西側に本丸を築きます。石垣を高く積み重ねて壮大な天守閣を建てました。
 さらに吉政は7つの支城をもうけて守りを固めました。久留米の篠山城を修築し、八女の福島城に本丸・二丸を新たに築き、三井郡赤司城・山門郡鷹尾城・上妻郡黒木城・三潴郡榎津城・山門郡松延城、三池郡江ノ浦城を整備して、子や家老を配置しました。(*これらの支城は後の一国一城令によって破却されています)。

 吉政が筑後に入部した当時の背景を考えてみましょう。
 家康は軍事的覇権を握った関ヶ原の戦い(1600年)から征夷大将軍を受命し幕府を開くまで(1603年)の間、関東で何をしていたのでしょうか?当時は大阪に豊臣家(秀頼と淀君)が存続しており、京都には朝廷と公家が存在していました。関東はともかく関西は徳川の実権が確立したとは全く言えない状態にありました。権力の空白を作ることは危険な状況です。にもかかわらず家康は関東平野の領地を広く見分していました。家康は政治の季節の終焉を見据え経済をいかにして軌道に乗せるかに心を砕いていたのです。関東平野を日本の中心にすべく城下町整備の他、河川改修・街道整備・新田開発など為すべき事業は山積していました。日比谷入江の埋め立て・神田川の開削・利根川や荒川の付け替えなど、家康は<日本列島改造>を実践したのです。(竹村公太郎「日本史の謎は『地形』で解ける」PHP文庫)
 家康の意向を受けて、日本各地で大規模な土木工事が行われます。各藩が自領地の潜在能力を最大化すべく躍動していました。この時代状況の中、吉政は土木技術のプロとしての才能を筑後でフル活用します。筑後にとって江戸時代初期に優秀な行政マンであった吉政の統治を受けたことは幸運なことだったと言えるでしょう。

 吉政は慶長14(1609)年、京都伏見で没します。享年61歳。遺体は京都黒谷の金戒光明寺(幕末に会津藩本陣が置かれたことで著名)に葬られます。
 吉政のお墓は複数ありますが、柳川では真勝寺にあります。というより真勝寺の本堂自体が田中吉政のお墓なのです。寺の北側に存在する小さい扉から本堂下に抜ける通路があり本尊の真下あたりに吉政の墓が築かれています。墓を拝見したい方は、お寺の方に了承を得たうえで静かに御参拝ください。(Googlemap)




 最後に吉政の後継者問題について触れます。
 吉政には4名の男子がいましたが、長男吉次は廃嫡となり、次男吉信は殺害されていました。そして三男吉勝との後継者争いに勝った四男忠政が継嗣に選ばれたのでした。ところが、吉政の跡を継いだ忠政が男子を残さぬまま死去したため、田中家は元和6(1620)年に幕府から改易されます。そして北部久留米藩を有馬家が、南部柳川藩を立花家が、幕末まで支配することになります。両藩は特に水問題を巡り対立を続け、その結果、筑後全体に目を配った「広域行政」の観点が見失われてしまうことになったのです。
 以下は私の推測です。豊臣恩顧だった筑後の田中家・熊本の加藤家の改易は当初から予定されていたことではないかと考えます。忠政が亡くなったのは元和6年8月7日です。吉政の正室であった妙濡院は幕府中枢にいた金地院崇伝に対して将軍への周旋を依頼しているようです。にもかかわらず8月14日には田中家断絶を前提とする書状が発布されています。田中家の改易はわずか数日間のうちに決しているのです(中野等「筑後国主田中吉政忠政」柳川市265頁以下)。大阪夏の陣(慶長20・1615年)により豊臣家が滅亡したことで幕府は安んじて豊臣恩顧の大名を切り捨てていったのではないでしょか。吉政がキリシタンに好意的だったことが影響している可能性もあると思われます。(吉政は大村純忠の代官として長崎を統治した長崎甚左衛門を後に迎え入れています・興味がある方は「ちょっと寄り道(長崎歴史散歩)」(2017年1月10日)を参照してください。)

* 余談ながら近江八幡はウイリアム・メレル・ヴォーリスが活躍し愛した街です。明治38年に来日したヴォーリスはキリスト教の理念に基づき「近江ミッション」(近江兄弟社)として医薬品(メンソレータム)販売・病院と結核療養所の開設・ミッションスクールの開設など幅広く活躍しました。ヴォーリスは建築部門も創設し全国のミッションスクールやプロテスタント教会など日本国内に幅広く約841棟もの建築物の設計をしています(11年12月14日「ルーテル教会1」参照)。多くのヴォーリス作品が各地で重要文化財に指定されています。近江八幡は田中吉政が基礎を作り、ヴォーリスの遺産をちりばめて現在に至っているのです。

* 2018年9月に(司法修習25周年名古屋同窓会の際に)岡崎と近江八幡に足を伸ばしました。岡崎は雨のため散歩出来ませんでしたが、近江八幡を散策でき、大いに感銘を受けました。 いずれの街も「徳川家康」「豊臣秀次」という有名人ばかりを宣伝しており実際に2つの街の基礎をつくった田中吉政に全く触れていないので歯がゆい感じを受けました。

* 陶芸家・絵本作家である江崎久美子さんが「初代筑後国主田中吉政公・お慕い申し上げそうろうゆえ」を出版されています(田中吉政公史談会八女)。所縁の地を実際に足で回って感じられたことを率直な文章でまとめられている良書です。お勧めします。
  田中家断絶の原因について江崎さんはこう述べておられます(FB)。
  田中家改易には、忠政の正室に、於大さんの息子の娘、家康の異父兄弟の娘が嫁いだことがキーポイント。この人にできた跡継ぎの息子が早く亡くなってしまい、徳川の血筋が繋げなかったことが一つあると考えます。その為、三男の吉興の娘に養子を貰い田中家再興を果たしますが、この養子息子は、お母さんが徳川家から来た人でした。そうして、徳川の血が入った田中家は続いて行きます。恐るべし、徳川家。