■2018年08月01日(Wed) 旧三本松町通り
(*本稿は09年10月10日にアップしていたものですが文化財保護課主催「軍都久留米の風景とくらし」展と「くるめ今昔写真館」展の展示をもとにリニューアルしました。)

 久留米城は元和7年(1621年)における有馬豊氏の入部以前は田中吉政が居城していた柳川城の支城でしたから、本城たる柳川と久留米を結ぶ道路(柳川往還)に特別の重要性が与えられていました(14/10/2「田中吉政の遺産2」を参照)。この南北のラインと通町が形成する東西のラインが、筑後弁護士会館の南でT字型に接します。この場所は江戸時代に「札の辻」と呼ばれ、高札が掲げられていました。ここが久留米藩における街道の起点でもありました。通り沿いに「札の辻」の跡を示す石碑が設置されています。
   
 現在(2017年7月)、この場所は回転寿司「スシロー」になっています。
 駐車場の向う側に筑後弁護士会館が見えます。その奥に見えるのが福岡地裁久留米支部です(2006年9月26日「久留米の法曹ゾーン」参照)。

 柳川往還の最初の部分(後述する三本松公園あたりまで)は特に「三本松町通り」と言われ
昭和20年8月11日の久留米空襲まで久留米一番の繁華街でした。
 
                   (昭和4年の地図)
 
           (17年7月「軍都久留米の風景とくらし」展より引用)

 現在「札の辻」の南側に「紳士服のフタタ」があります。旧三本松町通りはこの駐車場を貫通していました。駐車場を抜けて南に数十メートル分だけ昔の面影が残されています。
  

  旧・三本松町通りが繁華街であった証拠に道の両側に銀行がありました。東に一七銀行・西に第一銀行です。三本松町通りは久留米空襲で焼け野原となりましたが、木造でなかった2つの銀行建物は生きながらえて現在も雄姿をとどめています。
 旧一七銀行は、ロマネスク様式風の鉄筋コンクリート造2階建です。明治5年の国立銀行条例によって設立された銀行は数字が名称とされており、明治15年の日本銀行条例による普通銀行への転換後も、そのままの名称で営業するものが多く残りました。長崎の一八銀行は今も当時のままの名称ですが、一七銀行は福岡県内の他銀行を吸収する際に「福岡銀行」と名前を改め現在に至っています。 戦後復興の区画整理で三本松通りが消滅し、福岡銀行はこの建物で営業することを止め、現在の繁華街である明治通りに店舗を移しました。
 
  この建物は1968年に久留米市に売却され、長い間(2010年8月まで)久留米市立中央図書館西分館として市民に親しまれてきました。入口上部の看板に当時の文字をかすかに読み取ることができます。中には分厚い金庫用の扉が残されており、ここが銀行であったことを偲ばせるものとなっています。旧三本松町通りは建物の前の御影石のところに痕跡をとどめています。現在の道路は正確に南北を意識して形成されていますが旧三本松町通りは東に傾いて形成されていたので御影石が少し斜交するかたちで残されています。

 戦後の復興計画の中で、小頭町公園や東町公園と共につくられたのが三本松公園です。
かつての三本松町通りのライン上に池町川を渡る橋が創られています。
  
 橋を渡って直ぐの道路に白いラインが引かれています。
 この旧三本松町通りの線上に碑が設置されています。
 
 
 戦災後の遊び場のない子供達のため、昭和29年、三本松公園に無料の動物園が木下勇氏の寄付により開設されました。昭和27年の構想開始から2年近い努力の賜でした(木下勇氏については2012年2月15日「ルーテル教会3」を参照)。動物は別府ラクテンチ・宮崎の子供の国・鹿児島の鴨池動物園・熊本動物園・大牟田動物園等から寄付を募ったそうです。当初の敷地は300坪。今から考えれば小さいものですが当時の状況で考えれば夢のような楽園でした。最初の3日間は入園者2万5000人を数えました。2年目に700坪に拡大され、動物は90種・330匹にまで拡大しました。
 
       (当時の様子を示す図面)              (園の風景)

                        (園の入口)

 昭和30年春、園はインドクジャクの寄贈を受け繁殖を試みたところ大成功します。36年に成鳥は260羽に達しました。昭和39年に財団法人久留米市鳥類センターに組織を移管し、東櫛原に出来た総合スポーツセンター横に移転して現在に至っています。クジャクの一部は国鉄久留米駅にも飼われ、駅のアイドル的存在となっていました。(当時のチケット等
 


  三本松公園を抜けると松尾食堂(老舗)の右に現みずほ銀行(旧第一銀行)に向かう路地があり、現在は駐車場となっています。これが旧三本松町通りの残骸です。
 

 旧第一銀行(現みずほ銀行)久留米支店は、最近外壁を補修したので綺麗に見えますが、建築されたのは大正15年です。西村好時氏の設計・清水組の施工による鉄筋コンクリート造2階建の建物です。いわゆる銀行建築様式で、窓が小さく、太い縦の柱を強調しているのが特徴です(東京の三井本館・名古屋のUFJ貨幣資料館などが典型的な銀行建築様式)。三本松町通りは昔この建物の東側を通っていたので建物は東を向いて建っています。戦後区画整理で道が西に付け替えられたため、現在は建物が道に背中を見せているのです。
 
           (建設時の第一銀行久留米支店・清水建設の資料より引用)
 
                (現在のみずほ銀行久留米支店)
 明治時代、この場所に石橋徳次郎が営む「志まやたび」という店舗がありました。石橋正二郎氏の出生地はここです。店の東に通りがあったため石橋家は荘島小学校区にありました。「志まやたび」を母体に設立されたのが「日本足袋株式会社」。同社発展の契機は大正11年に開発された「地下足袋」(ゴム底を張った足袋・建築・農作業で重宝された)の大ヒットです。地下足袋の最初の大口需要者となったのは三池炭鉱。試作品が完成すると正二郎は団琢磨(三池炭鉱事務長)に試用を依頼しました。草鞋に比べ格段の耐久性がある上にゴムは電気を絶縁するので事故防止にもなります。鉱山特有のワイル氏病予防にも画期的効能を発揮しました(2015年3月16日「三池港周辺1」参照)。農作業や建築工事などでも有用であることが判り爆発的に売れたため日本足袋は巨万の富を獲得しました(2017年3月8日「アサヒコーポレーション」参照)。正二郎は経済的成功をふまえて昭和6年にタイヤ事業に乗り出します。反対ばかりの周囲の声を振り切って進もうとする正二郎の決断を後押ししてくれたのも団でした。ここに両者の深い信頼関係が形成され、後に正二郎の長男・幹一郎は団の孫娘・朗子(作曲家・団伊玖磨の実妹)と結婚することになります(2009年6月15日「石橋迎賓館」参照)。このようにして設立されたのが「ブリッヂストンタイヤ株式会社」です。成功の背後にはドイツ兵俘虜収容所から就職した優秀な技術者の存在がありました(2015年2月6日「ドイツ兵俘虜収容所2」参照)。(ブリヂストンの歴史

 下記の写真は空襲を受ける前(昭和初期)に現在の西鉄久留米駅上空辺りから撮影されたものと思われます。左端に現在の「みずほ銀行」があり右斜め方向に「三本松町どおり」が通っています。その上部に久留米市庁舎と久留米市公会堂が写し出されています(2017年8月2日「市役所付近の今昔」参照)。貴重な航空写真です。
 

 2017年10月に発行された「本町・三本松町さるくマップ」に「久留米商工史・別冊付録昭和16年度久留米市街図」が添付されています。興味深いので引用します。
  

 戦後、西に付け替えられた三本松通りの通り沿いに旧金文堂ビルがありました(2008年12月12日「旧金文堂ビル」参照)。中央分離帯には木下勇氏が心血を注がれた彫刻が設置されています(2012年2月15日「ルーテル教会3」参照)。私は通りに面したビルの1室で仕事をしています。仕事机から「みずほ銀行」前の広い交差点(本町交差点)が良く見えます。
 
 かつては左側に見える横断歩道上に「しまや足袋」の工場がありました。その手前の巨大な交差点中央部を東西に軌道が走っていました。
                  
 この「本町交差点」には以前「ロータリー」が設置されていました。年配者の方には現在でもこの交差点を「本町ロータリー」と呼ぶ方がおられます。
 
        *この写真は角度から考えておそらく現みずほ銀行から撮影されています。

  「三本松町通り」には古い久留米の記憶が詰まっているのです。

* 昭和39年の久留米市中心部の航空写真を見つけましたので引用します。
 
 新三本松町通りが従来よりも桁違いに広い規格で(中央グリーンベルトを伴って)計画されたことが判る写真です。本町のロータリーも目に付きます。手前側に写っているのは建て替え前の久留米市役所、その右が両替町公園(現在の市役所敷地)、手前に久留米市公会堂が見えます。左下には建て替え前の福岡地裁久留米支部が写っています。