■2018年06月07日(Thu) ちょっと寄り道(国分寺歴史散歩)
 東京に出向く機会がありましたので、3回にわたり多摩の歴史散歩をしてみました。多摩は私が20代を過ごした地であり、思い入れもあるので私の記憶を交えて国分寺・国立・立川を散歩することにします。第1回目は「国分寺」です(小平を含みます)。
 (参考文献) 皆川典久他「東京『スリバチ』地形散歩・多摩武蔵野編」洋泉社、萩原良彦「中央線歴史散歩」和泉たか子「西武新宿線歴史散歩」鷹書房、福田信夫「鎮護国家の大伽藍・武蔵国分寺」新泉社、高村弘毅「東京湧水せせらぎ散歩」丸善出版など。

 多摩歴史散歩の拠点は「ホテルメッツ国分寺」にした。メッツは国分寺駅直結の利便性が高いホテルである。私が住んでいた頃このホテルは無かった。私が住み始めた頃の国分寺には駅ビル自体が存在しなかったのだ。そこで国分寺駅の歴史から振り返ってみよう。
 国分寺駅は明治22年、甲武鉄道の新宿・立川間の開通時に開設された。わずか5年後の明治27年に川越鉄道(現・西武国分寺線)が開業した。川越鉄道は国分寺駅の中で一番駅舎寄りのホームを使って運行していた。その名残は現在も尚続いている。国分寺に住み始めたとき、私は国分寺駅の1番線ホームが何故西武線なのか不思議に思っていたが、これは明治27年以来の腐れ縁なのだ(西武国分寺線の線路はこのライン上に引かれており容易には動かせない)。現在も中央線と西武国分寺線は西方向にしばらく併走してから、くさび状三角地帯の先端を分岐点として、ひき裂かれるような角度で西と北に分かれている。余談であるが若き日の村上春樹氏はこの三角地帯に住んでいた(店舗については後述する)。
 明治39年甲武鉄道は国有化された。東京西部の中央を一直線に横断するこの路線は中央線と呼ばれるようになる。昭和3年国分寺・国立間が複線化され、昭和4年に電化された。
 国分寺駅は西武線の乗り換え客を控えた重要駅だったが駅舎は昔の面影を残すレトロなままであった。私は昭和57年に国分寺に住み始めたのだが、駅舎は当時も昔のままであった。北口は周囲より若干低くなっていた。中央線に乗るためには長い連絡橋を渡って2番線(上り)3番線(下り)に降りていた。西武多摩湖線には右上方の階段を上る必要があった。
 この不便な駅舎の改良工事が始まったのが私が大学4年生になった昭和61年。工事は昭和62年の国鉄分割民営化に伴いJRに引き継がれた。昭和63年、JRの2面4線化工事が完了し橋上の駅舎も完成した(工事期間中も駅機能を停止するわけにはいかないので区間を区切っての部分的工事が長いこと続行されていた)。平成元年に新駅ビルが竣工する。このときダイヤ改正が実施され、特別快速と通勤快速が停車するようになった(それまで国分寺に特別快速は停まっていなかった)。平成5年、JR東日本ダイヤ改正に伴い青梅特快も停車するようになった。かようにして国分寺駅は中央線の重要ターミナルとなったのだ。
 国分寺北口は私が大学前期2年間を過ごした街だ。大規模な区画整理の最中であり街の様子は私がいた頃と様変わりしている。駅前の道を右折し少し歩くと老舗喫茶店「でんえん」がある。コーヒーを飲みながらおばちゃんと雑談する。おばちゃんは80歳を超えている。店を60年もやっているとのこと。国分寺の歴史を見つめてきた老舗が何時までも続いて欲しいと願わずにはいられない。少し北に歩くと「富士ランチ」がある。普通の定食を出す、普通の洋食レストランなのだが、学生時代の私はここで夕食を食べるのが贅沢であった。
 アルバイトをやっていた喫茶店「シャノアール」は区画整理のためにビル自体が無くなっていた。この店では客商売(サービス業)として身体を動かして働く意味を教えていただいた。他の大学(津田塾・多摩美・東経大)の学生と仲良くなれた場でもあった。店番をした古書店「ユマニテ書店」も今は存在しない。店番をしながら多くの本を読んだ(堅い本から奇観本・漫画本・エロ本まで)。2つとも良いバイト先であったのだが、今では私の記憶の中にしか無い。
 本多4丁目の下宿跡を尋ねる。建物は取り壊されており駐車場になっていた。銭湯は小型のビルに建て替わっていた。1人で住み始めた頃の期待と不安を募らせた下宿界隈も今や自分の記憶の中にしか存在しない。私がここに来ることはもう無いであろう。
 旧銭湯前の道路を進み、踏切を越え交差点を右折し多摩湖線沿いに北に向かって歩く。ここにあった「日立武蔵」という社名は無くなり「ルネサス」という社名になっている。強豪の女子バレーのチームがあり、体格の良い女性選手が連れ立って歩く姿をよく拝見していた。
 五日市街道と玉川上水を超える。当時の私は両者の意義を認識していなかったのだが、五日市街道は江戸と武蔵五日市を結ぶ脇往還として繁栄した重要道である。杉並の馬橋から武蔵五日市まで約42キロメートル。当時の主力燃料だった巻炭は多摩の奥地から集積され五日市から江戸まで運ばれた。五日市街道が発展したのは承応年間(1652−1655)武蔵野に羽村から四谷大木戸まで約43キロメートルの玉川上水が開削されてからのこと(2016年4月8日「新宿歴史散歩」参照)。上水に沿うように新田が開発された。五日市街道はこの地において玉川上水から離れ立川市砂川に進み一直線に西に向かう。その後に米軍横田基地によって寸断される様子は立川歴史散歩(3回目)でお伝えすることになるだろう。
 この玉川上水沿いの小道は「ラバーズレーン」と呼ばれていた。一橋と津田塾の学生が恋愛をして2人で道沿いを歩く姿が見受けられることから名付けられたという。今でも一橋と津田塾のカップル成立の確率は高いようだ(当時の私はこの道を女性と歩いていない。涙)。
 道を直進し左に曲がると一橋大学小平キャンパスがあった地だ。前期の1・2年生がここに通い後期の3・4年生が国立であった。学制改革により一橋は全ての学生が国立に集約されており当時の地味な校舎も建て替わっている。もうここに来ることも無いだろう。
 一橋学園駅から国分寺行きの多摩湖線電車に乗る。多摩湖線の歴史を概観しよう。
 多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)が開業したのは昭和3年である。昭和10年、国分寺から伸びてきた多摩湖鉄道は萩山を経て村山に向かう。旧西武鉄道(川越鉄道)が村山線を開通させた為、これとの接続を図るべく小平支線を敷設し小平駅前に本小平駅を開設した。昭和15年に多摩湖鉄道が武蔵野鉄道に合併された。昭和19年、大和村(現・東大和市)に出来た日立航空機軍需工場(現・米軍大和基地)へ国分寺線の小川駅から専用鉄道が敷かれた。小川駅東側の陸軍兵器補給廠(現・ブリヂストン東京工場)へも引込線が出来た(2012年5月21日「東京の石橋正二郎1」参照)。この周辺の線路のごちゃごちゃした感じは周りが軍事工場地帯だった名残なのだ(多摩の中央線北は日本有数の軍事地帯だった)。多摩湖鉄道は武蔵野鉄道に吸収され武蔵野鉄道多摩湖線となった。昭和20年に武蔵野鉄道が西武鉄道(旧)を合併した。西武農業鉄道の名称を経て昭和21年西武農業鉄道が現在の西武鉄道に改称された。昭和30年、多摩湖鉄道と旧西武鉄道が一体化され「西武鉄道」としてスタートした。昭和43年、玉川上水から拝島へと最終延長を果たした。これにより拝島・新宿の急行列車も運転されるようになった。国分寺駅の改修後、平成2年に西武多摩湖線ホームの移設工事が完了し現在に至っている。あれこれ考えているうちに電車は国分寺駅多摩湖線ホームに着いた。改札口を抜け、駅ビルの飲食店で軽い昼食を取る。

 午後は南側を散歩する。南口を出て左(東)に府中行きバス停がある。大学1年の頃、私は調布市で家庭教師のバイトをしていた。南口からバスで府中に行きそこから京王線で調布に通った。府中行きバス停の正面にあったのが国分寺書店。椎名誠のエッセイ「さらば国分寺書店のおばば」で有名になった他、村上春樹の著書にも登場する。残念ながら今は無い。
 旧国分寺書店の東側に「殿ヶ谷戸庭園」がある。国分寺崖線(多摩川が刻んだ河岸段丘)を利用して形成されたものである。少し国分寺駅南口周辺の地形について考えてみよう。
 南口から半径200メートル程度の半円を描くと、どの方向に行っても相当な角度の下り坂になっている。丸い半島状の台地の下部に野川が流れている。野川の源流は中央線北側の日立中央研究所にある。研究所の周辺はかなりの低地であるため「恋ヶ窪」という地名が付けられている。武蔵野の低い段丘は立川面・一段高い段丘は武蔵野面と呼ばれている。段丘の縁端は数メートル程度の崖になっており、武蔵野の方言でこれを「ハケ」と呼ぶ(学術的には「崖線」と呼ぶ)。ハケの斜面地の多くは雑木林で覆われており、下部には湧水がみられる。(2012年6月15日「東京の石橋正二郎2」参照。)
 ハケには著名人の別荘や公園が見受けられる。その典型が殿ヶ谷戸庭園である。学生時代の私は庭園に興味が無く訪れたことが無かった。この地は江口定條(南満州鉄道副総裁・貴族院議員)が別荘を構え、後に三菱財閥の岩崎彦彌太が買収したものである。昭和49年東京都が買収し平成23年に国の名勝に指定された。園内は相当の高低差がある。古来の武蔵野の豊かな自然を感じさせてくれる見事な庭園である。
 殿ヶ谷戸庭園を出て坂を下る。道を挟んだ東側に雑居ビル(トミービル)がある。このビルの地下1階で若き日の村上春樹がオーナーとして始めたのがジャズ喫茶「ピーター・キャット」。椎名誠もそうだが、当時の国分寺南口には結構な文化人がたむろしていたのだ。
 坂を下り交差点を府中方面に右折する。昔この辺りは小道具屋が多かった記憶がある。
 国分寺街道を400メートル程歩き右折すると「お鷹の道」に入る(この名称は江戸時代の国分寺が尾張徳川家のお鷹場だったことから名付けられたようだ)。この地には国分寺崖線下「真姿の池」を初めとする湧水群がある。これら湧水の存在がこの地に武蔵国分寺が設けられた理由の1つである(もう1つの理由は府中市に所在した「武蔵国国府」からちょうど良い距離と方角にあったということだ)。奈良時代に完成する律令国家は列島を60あまりの「国」に分け、その下部に「郡」を、末端に「郷」を置いた。武蔵国には15郡がおかれ(現在の東京・神奈川北部・埼玉南部)郷は120もあった。日本は大国・上国・中国・下国の4等級に分けられていたが、15郡も存在した武蔵国は当然「大国」に位置づけられていた。言うまでもなく、国分寺は聖武天皇が当時の地震・飢饉・天然痘などによる国家(王権)の危機に際し仏教による国家安寧を祈願して天平13(741)年に発した「国分寺建立詔」により造営が進められた当時の巨大国家プロジェクトである。総国分寺としての位置づけが与えられた東大寺には大仏が造営された。大国だった武蔵国にはその規模に相応しい大伽藍が形成された。現在、発掘調査跡が視覚的に保存され、往時の大伽藍をイメージできるようになっている。
 国分寺の発掘調査の過程で発見されたのが東山道(古代官道)の跡。軍事的色彩の強い律令国家体制確立を目指した古代日本は中央と地方を一直線に結ぶ道路網を短期間に構築した。古代官道は異常なほどの直線性が貫かれている。地図に定規で書き入れたような直線道路である(近江俊秀「古代道路の謎」(祥伝社新書)を参照)。この道路は都から東国へ向かう東山道の支道(武蔵道)であり、上野国(群馬)で分岐し武蔵国国府への往還路として築かれたものだ。まさに「奈良時代の巨大国家プロジェクト」(@近江)というに相応しい。
 府中街道を挟んで反対の西側に国分尼寺の跡がある。ここでも発掘調査の跡が視覚的に保存されているので興味がある方は是非ご覧頂きたい。
 府中街道を北上し和泉町交差点を右折する。この道は学園都市「国立」が箱根土地により開発される際に大学側と「国分寺と国立を結ぶ幅5間(約9メートル)道路を作る」という約束を交わした同社によって形成されたものである(次回「国立歴史散歩」で言及予定)。
 しばらく歩くと両側に広大な公園が広がる。武蔵国分寺公園である。私が住んでいたころ、この公園はなかった。北の泉地区は平成14年・旧国鉄中央学園の跡地に、南の西元地区は平成16年・旧郵政省官舎の跡地に各々形成されたものである。
 公園を過ぎると道は下り坂になる。最下部の道路の遙か下方に左右をコンクリートで削り取られた小さい野川が見える。今は悲しい状態に置かれている野川であるが、しかし、昔はこの川こそが現在の特徴ある地形を産み出したのである。中央線は国分寺駅を出て西に向かうときに周辺住宅地の上を通る。電車の窓の外には遙か下に民家の2階が見える。国分寺駅や西国分寺駅の周辺は線路が住宅地の下側を通っているのに恋ヶ窪周辺は線路が住宅地の上を通っているのだ。この巨大な高低差が面白い。最初に述べたとおり、甲武鉄道の新宿・立川間は明治22年に開設されたものである。上記高低差を克服する工事も明治22年迄に行われていることになる。今でこそ何も考えず通り過ぎているが、明治22年当時の技術で高低差が激しいこの地に水平線としての線路を引くことは難工事だったことであろう。
 道に戻る。野川の先の坂を登ると駅ビルが見える。ホテルメッツで一休みし駅ビル最上階のレストランへ向かう。ビル上から眺める夕暮れの武蔵野の街並みは美しい。昔は無かった天空の視点を満喫しながら美味しい夕食を頂く。国分寺の散歩はこれで終わりである。

* 次回(第2回目)は国立を散歩します。