■2018年01月02日(Tue) ちょっと寄り道(鳥辺野歴史散歩)
 先日、京都に出向く機会がありましたので、以前から興味があった鳥辺野(とりべの)を散歩してみました。鳥辺野は阿弥陀ヶ峰(鳥部山)山麓を中心に、北は清水寺がある音羽山から南は東福寺周辺まで、鴨川から東山山麓にかけての広い地域を指しています。以下なるべく時代を順にたどる形で散歩してみることにしましょう。
(参考文献・仁木宏他「歴史家の案内する京都」文理閣、中西宏次「京都の坂・洛中と洛外の『境界』をめぐる」明石書店、梅林秀行「京都の凸凹を歩く」青幻社、小松和彦「京都・魔界案内」知恵の森文庫、「京都時代MAP平安京編・安土桃山編」光村推古出版、京都市埋蔵文化財研究所「平清盛・院政と都の変革」「京都秀吉の時代・つちの中から」ユニプラン、「新版古寺巡礼・京都5六波羅蜜寺」「同18妙法院・三十三間堂」「同26清水寺」淡交社など)

 京阪電車「清水五条」を降りる。鴨川沿いに北上すると松原橋に出る。この橋が平安時代の五条橋である。牛若丸と弁慶の出逢いはここを舞台にしている。松原橋は鴨川にかかる他の橋と比べて狭い。西詰に京都市の説明板があり、次のように書かれている。
  「松原通は平安時代の五条大橋であり、当初は嵯峨天皇の勅命により橋が架けられたと
  いわれる。清水寺の参詣道でもあったことから人の往来が多く大変賑わった目抜き通りで
  あった。元来、この地に架かっていた橋が五条橋であり、通りの両側に見事な松があった
  ことから五条松原橋とも呼ばれていた。」
 平安時代に於いては「松原橋から清水寺に上がって観音菩薩を拝み、祇園に降りて、四条から戻る」という道程が当時の民の代表的な(信仰を兼ねる)散策ルートであったようだ。
 与謝野晶子の次の歌はこの平安時代からの心象風景を前提にしているのである。
        清水へ 祇園をよぎる桜月夜 こよい逢う人 みなうつくしき
 当時、鴨川の幅は現在よりも遙かに広く、中島(中州)が存在した。ゆえに松原橋とは両岸と中島を結ぶ2つの橋の総称であった。中島には「法城寺」という寺があった。
 2つの橋を渡って清水寺に向かう道は「清水坂」と呼ばれ、特殊な意味を付与されていた。平安時代において「坂」は必ずしも「物理的な傾斜地」を指すものではなかった。それは何かと何かの「境」を意味する場所のことであった(中西23頁以下)。
 清水寺がある鳥辺野は京の代表的な葬送地である。山麓には今も斎場や多くの墓がある。昔は鳥葬の地であり人が亡くなると死体が捨てられる野原だった。それをついばもうとする鳥たちが集まったから「鳥辺野」と呼ばれたのだ(ちなみに鳥葬は世界中に見られる風習であり京都独自の風習ではない)。行基菩薩は野ざらしにされた死体を集め荼毘に付し、山中に阿弥陀堂を建てて供養した。それ故に鳥辺山は「阿弥陀ヶ峰」とも呼ばれるようになった。
 兼好法師は「徒然草」で「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。」と書いた。
 松原橋から東に向かい歩いてゆくと「正面に六道珍皇寺・右に六波羅蜜寺」を指示する標識がある。この三叉路は「六道の辻」と呼ばれる。六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という6つの冥界を指し、六道の辻はこれらが交差するところと考えられていた。
 六道の辻の北に「幽霊子育飴」を売る店(みなとや)がある。次の伝承がある。
 毎晩、夜更けになると飴を買いに来る女がいた。不審に思った店主が恐る恐る女の後を付けてみると鳥部野墓地の辺りで姿が見えなくなった。翌日、鳥部野の墓地にでかけて調べると赤子の泣き声がする。その墓を掘ってみると女の亡骸の横で赤子が飴をしゃぶっていた。幼子を残したまま死んだ女の霊が赤子を育てるために毎晩買いに来ていたのであった。
 この話を元にして創作されたのが水木しげる氏の「墓場の鬼太郎」である(後に大ヒットした「ゲゲゲの鬼太郎」は水木氏がこれを一般ウケするようマイルドに改変したもの)。
 みなとやの南に西福寺がある。この寺でお盆の時期に「九相詩図」が公開される。女が死にその遺体が腐乱して行く様を徹底したリアリズムで描いている絵である。平安時代この周辺で日常的に見られた風景だったに違いない。私は医学文献に載せられているこの絵を拝見したことがある。機会があれば是非とも現物を鑑賞したいと思う。
 清水坂を東に歩いてゆくと間もなく「六道珍皇寺」がある。当時の民に六道珍皇寺はあの世への入口だと考えられていた。境内の井戸は冥界につながっており、平安時代の公家・小野篁(おののたかむら)はこの井戸から地獄に通って閻魔大王の補佐をしていると信じられた。小野篁は(現在の検察庁である)弾正台次官(現在の裁判官である)刑部大輔を務める役人だった。今昔物語には「篁の恩人である藤原良相が重病で他界し閻魔大王の裁きを受けたときに篁が命乞いして蘇生させた」との逸話が残されているそうだ。
 六道珍皇寺は、ふだんはひっそりとしているが、1年に1度だけ(8月7日から10日までの4日間)盂蘭盆の精進迎えの参詣者で大いに賑わうという。ご先祖様の霊はここから各家に帰るのだ。「六道さん・お精霊さん」と呼ばれている京の代表的な盆行事である。
 清水坂は厳しい差別の磁場を形成していた。清水坂が京の中心と鳥辺野を結ぶ連結点である以上そこに葬送を職業的に担う人々が必然的に要請されるからである。鳥辺野は全体が強力なスピリチュアル空間を形成していたが、六道珍皇寺周辺は特にその磁場が強力であった。四条河原から六条河原に掛けての鴨川縁が長い間、処刑場として機能し、芸能が盛んになったのもこの差別の磁場が背景にあった。中世人の観念世界では、都市外側に人の手の及ばない世界が広がっており、両者の境界は超越的存在(神仏・幽霊・妖怪)と人が交わる場所として意識された。芸能者・宗教者といった遍歴民・社会から差別を受けていた民・商業や交易にたずわる民といった歴史の表舞台に登場しない人々の活発な活動が繰り広げられたのである。前述した法城寺は中世の京における陰陽師集団の拠点であり、被差別民の拠点でもあったという。彼らは平安時代の陰陽師・安倍清明を自らの始祖としており、法城寺には「清明塚」が存在した。この寺には鴨川の治水神の役割も与えられていた。「法」は水が去りて「城」は土と成ると分解でき、両者で治水の意味を表象していたのである。
 清水寺に向かう。山号は音羽山。開創は宝亀9年(778年)。本尊は十一面千手観世音菩薩である(秘仏)。「清水」という寺名は音羽の滝に流れる清い水に由来する。僧侶賢心が夢の中で「木津川の北流に清泉を求めて行け」との託宣を受け、木津川へ向かったところ音羽山の滝の麓で滝行をしていた行叡居士に出会う。年齢が200歳だという行叡居士は「私はあなたを待っていました。私は東国へ向かうので、あとは頼みますぞ」と霊木を託し、千手観音像を奉刻して観音霊地を大切に守ることを残して去っていった。 賢心が「行叡居士は観音様の化身だ」と悟り、霊木に千手観音を刻んだのが清水寺の始まりだとされている。
 古来の日本に於いて「清い水」が出る所は神域であった。おそらく清水寺周辺も、寺が出来て初めて崇敬の対象になったのではなく、清水が出る聖なる領域に観音菩薩信仰が習合して聖性を高めたものと思われる。境内には(神仏習合時代に大黒天と同一視された)大国主命を祀る「地主神社」がある。もともと清水寺の鎮守社であったが、明治の神仏分離で独立させられた。大国主命はモテる男神であり、多くの女神と結ばれたことから地主神社は縁結びの神社ともされる。三代の神たちが祀られ子授けや安産のご利益もあるとされる。清水寺が京庶民の強い信仰を集めたのは「汚れたものの先の美しいもの」あるいは「死の先の生(性)」という「泥水の中に咲く蓮の花のような存在」を主張していたからではないかと思う。
 清水寺を出て坂を戻る。「六道の辻」を南に曲がると六波羅蜜寺がある。平安時代後期に空也上人が鳥辺野に葬られた者の霊を供養するため建立したものである。源平時代において武家は(平氏も源氏も)六波羅を本拠地とした。「貴族が忌み嫌う鳥辺野」を武家が本拠地としたのは何故か?武士にとって死は日常だった。生死の境で政治を動かそうとする武士にとり死を象徴する鳥辺野、その中心に近い六波羅こそ(交通の要衝ということもあり)最適な場所だった。スピリチュアル空間である鳥辺野は忌み嫌われるはずの蛇やカラスがある種の信仰対象となったように権力の源泉となる場所だったのだろう。
 清盛の祖父正盛が六道珍皇寺南側に邸宅を構え御堂(常光院)を建立したのが平氏支配の始まりとされる。清盛の代に至って六波羅は平家一門の邸が軒を連ねる所となった。平氏の邸宅は町名になごりを留めている(多門町・三盛町・旧泉殿町等)。旧泉殿町に清盛の泉殿があり、中に常光院と鎮守社があった。鎮守社には安芸宮島から勧請した厳島神が祀られていた。南の池殿は清盛の継母池禅尼の邸宅である。清盛の娘徳子(建礼門院)が安徳天皇を出産したのはこの邸だ。寿永2(1183)年、平家一門が安徳天皇を奉じ都を落ちる際に六波羅には火が放たれ、ここに立ち並んでいた豪壮な平家の邸宅は全て灰燼に帰した。
 源頼朝が鎌倉幕府を開いて以降、ここには「六波羅探題」が置かれ、京における源氏の拠点となった。「幕府」(鎌倉)は攘夷のための武家野営地に過ぎず「京における武家政権の本拠地は六波羅だ」と認識されていたのである(仁木101頁)。
 六波羅蜜寺南には隣接して「法住寺」が存在した。後白河上皇が平清盛との蜜月関係を築いていたことの象徴である。後白河上皇は保元3年(1158)皇位を皇子の二条天皇に譲り、法住寺を院の御所と定めた。当時の法住寺は北は現在の方広寺、南は(東海道線より南の)大谷高校あたりまでの超広大な面積を誇った(大谷高校が周辺より若干低くなっているのは法住寺の池だったからだ)。高倉天皇中宮となった徳子が入内したのもこの地からである。
 壇ノ浦で平家が滅んだ後、徳子は建礼門院として出家し、大原の寂光院に入る。後白河上皇がこの寂光院をお忍びで訪れる「大原御幸」は平家物語の名場面の1つである。
 鳥辺野は「貴族が忌み嫌う」地域であった。この地を自己の本拠地とした後白河上皇が従来の皇族といかに異なる知性感性を持っていたか想像できよう。後白河上皇が遊女など庶民が口ずさんだ今様歌謡を好み「梁塵秘抄」を編纂していたことも同じ意味を持つ。
 後白河上皇は永暦元年(1160)尊崇していた日吉と熊野の神々を法住寺内に勧請し「新日吉」と「新熊野」各神社を創建した。他方で上皇は平清盛に命じ法住寺内に蓮華王院を造営した。これが現在も残っている「三十三間堂」である(この建物は法住寺の御堂だった)。
 平清盛死亡の2年後、木曽義仲が法住寺を襲う。後白河上皇は建久3年(1192)に死去した。法住寺は「妙法院の院家」の待遇を受け、法住寺陵と妙法院歴代門跡法親王の御墓を守ってきた。明治以後は、後白河天皇陵と法親王御墓が宮内省所管に移ったので「大興徳院」の号で陵墓と境域を別にすることとなった。この「大興徳院」が「法住寺」と昔の名称に復称されたのは昭和30年のこと。地図上で「法住寺」という記載を見ることが出来るようになったのは最近のことなのである。現在の法住寺を訪れるとあまりの狭さに驚いてしまう。

 六波羅蜜寺から南に歩く。広い国道1号線を渡る。今の道路幅を前提にすると道路の北と南が全く別地域のように誤解してしまうが、源平時代も秀吉時代も両者は一体であった。
 歩いて行くと急に道が広がり左に巨大石垣(高さ約3m)が並んでいる。これが現在の「豊国神社」である。秀吉は「法住寺跡」を自分の宗教的権威を表す領域にした(大阪城は私的領域・聚楽第や伏見城が公的領域である)。桃山時代、現在の京都国立博物館の敷地を含む広大な土地に秀吉が構築したのが「方広寺」である(今の方広寺はその極一部に過ぎない)。方広寺北側には奈良の東大寺大仏殿をしのぐ巨大な大仏殿があった。豊国社前の通りは「正面通り」と命名されているが、これは大仏の正面という意味である。派手好きな秀吉が巨額の資金と労力を投入し豊臣政権のシンボルとして京に建立したものである(刀狩の名目は大仏建立のための金属供出である)。この最初の大仏は慶長地震で崩壊している。現在の豊国神社の裏手には大仏の仏座を示す礎石が残された「大仏殿跡緑地公園」がある(近時整備されたもの)。通りに巨大石垣が並んでいるのは(この場所が東高西低の傾斜地だったので)平坦面を形成するために西に石垣を作り土砂を盛る造成工事が必要だったからである。土砂を突き固めるため秀吉は町衆を上で踊らせた。動員した町衆は上京下京各2000人。餅や酒が大量にふるまわれ笛太鼓の音に合わせて延べ4000人もの町衆が造成地の上で踊り続けた。土木工事は祝祭となった。いかにも秀吉らしい手法である。
 耳塚前の道路は広い空間を形成している。これも大仏前広場を祝祭空間とする秀吉の意図的な演出である。耳塚の前に「甘春堂」という和菓子店があり、大仏餅を名物としている。歩き疲れてきたので休憩のために私はこの店に入り、大仏餅を美味しくいただいた。
 正面通りの先にあるのが正面橋。秀吉は大仏殿建立時に五条松原橋を平安京六条坊門小路(現在の五条通)に無理矢理付け替えた。現在の京都の「条」は平安時代の「条」とずれているが、その原因は秀吉による強引な京都改造にあったのだ。
 正面橋を渡ると任天堂の旧本社家屋がある。上部に「トランプ・たるか」中央に「元造製」下部に「堂天任内山」最下部に「西橋大面正都京」と書かれたプレートがある(トランプ以外は右から読む)。任天堂の当初の性格が良く判るプレートである。この周辺も強いスピリチュアルゾーンを形成している。近代に於いては「五条楽園」という遊郭街であり、平安時代には「河原院」という貴族の邸宅があった。河原院は源氏物語の主人公・光源氏のモデルとされている。付近には今でも遊郭時代の建物が残されている。散策中に某ヤクザの入っていたビルを発見した。京都地裁執行官の書類が貼られていた。デイープな京都を感じさせる。
 若干、脇道に入ってしまった。正面橋を戻って秀吉ゾーンに帰る。
 秀吉が方広寺大仏殿を建立した際、三十三間堂は千手堂として方広寺内に編入された。南大門横に現存する巨大な練土塀(俗に言う「太閤塀」)はこのとき築造された。これは三十三間堂のために構築されたというよりも「豊臣ワールド」の南限を示すものであった。
 慶長3年(1598)8月18日、秀吉は齢63歳を以て伏見城にて没した。遺体は、遺命により鳥辺野の中心・阿弥陀ヶ峰中腹に葬られた。「死後も冥界の君主でありたい」という秀吉の強い意志が感じられる。墳上には祠廟が、山麓には壮麗な豊国社殿が建立された。
 慶長4年4月18日、遷宮式が行われ、後陽成天皇から正一位・豊国大明神の神階神号を賜り毎年盛大な祭礼(豊国祭)が執り行われた。特に秀吉の七回忌にあたる慶長9(1604)年の豊国祭は盛大だった。大阪の豊臣家は家運衰退を挽回したいと考え、伏見の家康は秀吉の徳を称えることで人心を集めようと考え、京の町衆は日頃の不満を爆発させたのだとされている。現在の豊国神社宝物殿に慶長9年の豊国祭を表現した秀麗な絵が残されている。この絵は「豊国祭の祭礼が如何に大規模に華やかに行われたか」を現代に伝えている。
 現在の豊国神社を出て、京都国立博物館を周る。角の交番は「大仏前交番」と命名されている(方広寺大仏殿のことを知らない人は意味が判らないであろう)。智積院と妙法院の間に京都女子大学に向かう坂道(通称「女坂」)がある。登り始めると直ぐ巨大な「豊国廟参道」の石碑がある。脇には京都市による「鳥辺野」の簡単な説明文がある。
 そのまま歩いて行くと右に「新日吉神社」がある。この脇を抜けて登りきった処に広く平坦な場所(太閤坦)がある。現在はバスの発着所であり地味な拝殿が建っているだけだ。昔、ここに存在したのが絢爛豪華な「豊国神社」である。平坦な地面は自然地形ではない。豊国神社造営のために多大の労力が注ぎ込まれて形成された人口的構築物である。
 家康は秀吉死亡後も豊臣に対する忠義を直ちに捨てたわけではない。豊臣体制は堅固なものであり、手順を間違うと「謀反」の烙印を押され己の政治生命が危うくなったのである。家康が軍事的覇権を握った関ヶ原の戦い(1600年)後も、大阪には豊臣(秀頼と淀君)が・京都には朝廷と公家が存在した。家康は関ヶ原の2年半後に伏見城で征夷大将軍を拝命するも、これは関白という最高権力者に就くのは秀頼だという共通了解があったからだ。家康は関ヶ原を「豊臣体制護持」を名目として戦った。家康は豊臣体制の責任者だったのだ。
 家康は姓を豊臣から源に改姓し「蘇った源頼朝」の印象を獲得した(反平家の象徴)。東への関心や公武峻別感覚に於いて家康は「源氏」であろうとした。インテリでもある家康は「平家物語」を読み込み、その再演を狙ったに違いない。家康は有力大名に松平姓を授与し(公武合体的)関白型公儀から(公武峻別的な)将軍型公儀への組み替えを進めた。有力大名に江戸城の手伝普請をさせる代わりに江戸屋敷を与え・五街道を整備し・外国に国書を送った。大戦を想定し短期間の内に大阪城包囲網を完成させた(伏見城・姫路城・今治城・甘崎城・下津井城・彦根城・丹波笹山城・名古屋城・伊勢亀山城・津城・伊賀上野城)。家康はこの気の遠くなるような政治的・軍事的配慮を施した後、2回の「大阪の陣」をおこし豊臣家を抹殺した(因縁となったのが方広寺の鐘だ)。元和元年、幕府によって秀吉の墓は破壊された。秀麗を誇った豊国社の極楽門は琵琶湖竹生島の宝厳寺観音堂に寄進されてしまった(現在・国宝)。
 幕府は妙法院に千石を加増し、方広寺大仏殿と三十三間堂を妙法院の直接管理下に置いた。他方、幕府は豊国神社の参拝を禁止し、社殿は荒れるに任せてしまった。かつて秀吉を「主君」として崇めた家康の酷い仕打ちであった。
 それから250年以上もの時が経過した。薩長の政治工作によって「維新」が成功し、徳川幕府が崩壊すると、秀吉を再度顕彰する動きが本格化する。明治13(1880)年、方広寺大仏殿があった場所に「豊国神社」が再建された。当時の太閤担には新日吉神社があり、これを移動させないことには再建不可能だったからである。豊国社中心部に立つ国宝唐門は南禅寺金地院から移築されたものだ。参道敷石に赤褐色でヒビの入ったものがある。移築の際に大仏殿の床を飾った敷石が転用されたものだという。桃山時代の落雷焼失による焼損の痕が現代まで変色したまま残っているとは凄い。
 明治23(1890)年、豊国廟修復と秀吉没後300年を記念する豊国会(会長・黒田長成)が結成された(豊臣ゆかりの旧大名家が結成)。豊国会により豊国廟参道が整備された明治31(1898)年当時、参道入り口には10段の石段があり、両脇が車道となっていた。1960年代、交通量が増えてきたので石段が取り除かれ勾配約10度の車道となった。車道だったところに幅3mの石段が取り付けられ歩道となっている。歩道南にあった「豊国廟参道」の石碑も現在地に移された。1970年代まで両脇に松並木があった。
 江戸時代、太閤担には阿弥陀ヶ峰への道を遮るように新日吉神社が存在した。豊国会の最大の課題は新日吉神社を移転させ山頂まで一直線に伸びる参道を復元することだった。新日吉神社と豊国会との間で何度も協議がなされ、豊国会が移転費1万4200円、保存費5000円、敷地代1500円を支払うことで合意が成立する。明治31(1898)年、新日吉社は太閤担から西側の現在地に移転した。一の鳥居近くに「京都米穀取引所・京都株取引所」から寄進された灯籠がたっている。京都女子大学前に「大阪六遊郭」と刻まれた灯籠が2基あり、二の鳥居に続く石段脇に「大阪市南区西濱有志中」から寄進された灯籠が2基ある。死後400年以上も経っているのに、関西人がいかに太閤秀吉を敬愛しているか判る気がする。
 豊国会は新日吉社を西側に移し、太閤坦に二の鳥居を建て、手水屋・拝殿・廟務所を建立した。拝殿の北側には秀頼の子(国松)と側室(京極竜子)の墓石が並んでいる。これは明治37年に誓願寺から改葬されたものだ。太閤坦は現在バス発着所になっている。ここに日本史上最強の権力者を祀る絢爛豪華な神社があったとイメージするのは難しい。無理を言うなら、脳内で現在の豊国神社に「奈良の東大寺大仏殿」を置き、現在のバス発着所に「北野天満宮の拝殿」を置けば良い。豊臣ワールドがいかに壮麗なものだったか想像できるであろう。
 阿弥陀ヶ峰の頂上(標高196m)にある豊臣秀吉墓所(豊国廟)は、豊国会により、明治30(1897)年廟宇が再建されたものである。墓所に昇る石段は2段階に分かれる。最初は315段。そこで一旦平坦になり、桃山式の唐門がある。それから更に172段。登りきった処に五輪石塔がある。鬼才伊東忠太によるものである。台座を含め約9メートルという巨大なものだが「日本史上最強の権力者」豊臣秀吉の墓としては寂しい感じがする。私の他に長い階段を歩いて昇ってくる観光客は皆無であった。冥界で秀吉は何と感じているであろうか?
 もしも「江戸時代」が短期で終わり京都が直ぐ政治の中心に復帰していたならば、近代的首都の建設のため京都には膨大な公的資金が投入されることになったであろう。その際に豊臣ワールドはかなりの規模で修復工事が行われていたであろう(逆に江戸は寂れたはずだ)。が、江戸時代は長すぎた。世界有数の都市に成長した江戸(巨大な人口が既に存在)・多くの大名屋敷が並んでいた江戸(容易に公用地への転換が可能)。江戸を除いて新しい首都を建設できる都市は存在しなかった。そのために江戸は「東の京」と改称され、近代化に向けて政府の膨大な公的資金が投入された。京都に「豊臣ワールド再現のための公的資金」は拠出されなかった。拠出をしたのは豊国会(豊臣恩顧の旧大名家)であり、出せる資金には限界があった。こうして豊臣ワールドの修復は中途半端なままで終わることになったのである。

 京都は考古学的に表層から下層まで辿っていかないと現在が見えてこない。特に鳥辺野の周辺は権力者の思惑が交錯して、現在に至る経過がとても見えにくい。というよりも権力者にとっては「前の時代の権力者の痕跡を抹消すること」が重要な政治課題なのであった。
 生と死の境であり、裏返しの力の源泉となる場所だった鳥辺野。ここは底辺の者が生活を展開した場であり、同時に頂点の者がドロドロの権力闘争を展開した場でもあったのである。 (終)

* 後記  三十三間堂の国指定重要文化財「千体千手観音立像」の修復が終わり1001体のうち最後の9体が22日搬入されたそうです。修復は1973年度に始まり、約45年かけて完了したとされています。毎年15〜40体を修復。虫やカビの繁殖を抑えるため、長年積もったほこりを取り除き、金箔が剥がれるのを防ぐ処置などを行ったようです。文化庁の補助金を含め総事業費は約9億2300万円とのことです。(毎日新聞2017年12月22日)