■2015年01月09日(Fri) ドイツ兵俘虜収容所1
 大正時代に大勢のドイツ人が久留米に住んでいたことは久留米市民にも意外と認識されていません。そこで2回にわたりドイツ兵俘虜収容所を取り上げることにします。今回が収容所設置の経緯・次回が収容所の内実です。以下、久留米市文化財調査報告書153集・195集・213集、瀬戸武彦「青島から来た兵士たち」同学社等を基礎にしてご紹介します。
(*平成26年10月4日から開催された「ドイツ兵久留米俘虜収容所展」および平成29年7月8日から開催された「軍都久留米の風景とくらし展」の展示内容とパンフレットを参考に補正を加えました。転載を許可いただいた久留米市文化保護課の御厚意に感謝します。)

 久留米には明治40年に第18師団が設置されます。誘致にあたっては佐賀県との誘致合戦があり久留米市が13万坪・有馬家が2万坪を献納するという官民上げての大歓迎により成功したものです。以降、習志野と東京から騎兵第22連隊・熊本から野砲兵第24連隊・小倉から独立山砲第3大隊・姫路から歩兵第56連隊が移転し、久留米は軍都として急速に発展しました。主要施設の場所は@現在の税務署から社会保険事務所付近、A南町の福岡教育大付属小中学校付近、B国分の自衛隊付近、C御井の久留米大学付近です。
  
      (上の地図の赤線で囲った部分が師団関係施設です)。

 師団司令部は現・久留米税務署にありました(現在も当時の門柱が残されています)。
  

 第18師団は大正14年5月に軍縮により廃止されます。4師団が廃止された、宇垣軍縮によるものです(世界的な緊張緩和にもとづく)。童女木池の畔に第18師団の記念碑が残されていますが、これは廃止の際に建立されたものです。
  
      (なお第18師団は昭和12年に軍拡により復活しています。)

 第1次世界大戦に於いて日本は日英同盟によりドイツに宣戦布告し、アジアにおけるドイツの拠点たる青島(チンタオ)要塞を攻撃することになりました。当時、日本ではこの戦争を「第1次世界大戦」とは認識しておらず「日獨戦争」と言っていました(第1次世界大戦とは後世の歴史家が付けたものです)。JR南久留米駅近くの久大線の線路の脇に「日清・日露・日獨」戦争の記念碑が残されています(右)。これが当時の国民の意識を表すものなのです。
 青島要塞攻撃の主力は久留米の第18師団を中心に編成された独立第18師団でした。独立第18師団は熊本の歩兵第56連隊、久留米の第48連隊、佐賀の歩兵第55連隊、大村の歩兵第46連隊などから編成されていました。

 独立第18師団の諸部隊は大正3(1914)年8月25日に駐屯地を出発し、9・10月に準備を整えて攻撃を開始しました。独立第18師団は直接に要塞を攻撃することは困難と見て、山東半島の反対側の龍口という港町に上陸して数百キロ先の青島に進軍しました(正面攻撃を繰り返し死傷者を増やした日露戦争の旅順要塞攻撃の反省によるものでしょうか?)。そして激戦の末に11月7日に青島要塞を陥落させました。
 この戦闘でドイツ兵4791名が俘虜(当時は「捕虜」ではなく「俘虜」と言いました)になり、内4679名が全国各地に送られました。攻撃の主力部隊第18師団の駐屯地である久留米には最大の俘虜が送られることになり、青島陥落の見通しが立った10月6日には早くも久留米俘虜収容所設置が告示されています。これは全国16カ所に設けられた収容所で最初のものです。収容所は当初、料亭(香霞園)跡や梅林寺・大谷派教務所(現・日吉小学校)等に置かれていましたが、増大する俘虜の数に対応できなくなりました。

 大正4(1915)年5月25日、所長は真崎甚三郎中佐に交代しました。真崎所長は同年6月9日、国分村の衛戊病院新病舎跡(現在の久留米大学医療センターと市営山畑住宅一帯)に新しく俘虜収容所を設け、3カ所に分散していた俘虜を国分村の新収容所に統合しました。
 以後、大正9(1920)年3月12日に閉鎖されるまでの5年半もの間、大勢のドイツ人(最大1319名)が久留米の街に住むことになりました。

                (「収容所展」解説シートより引用)

 医療センター駐車場の中に樹木と石碑があります。この辺りに収容所の入口がありました。石碑は衛戍病院の跡を示すものであり収容所への言及はありません。


 山畑住宅は建物が全て取り壊されて更地になっているため収容所跡の雰囲気をわずかに感じることが出来ます。


 近くにある白川公園には当時の遺構が残っています。直下にある水源の水を貯め(周辺の陸軍施設も含め)収容所の生活用水をまかなった貯水槽です。100年以上も使われており、現在は農業用水として使われています。(西日本新聞筑後版14年10月17日)


 この狭い敷地に大勢の俘虜を押し込んだため俘虜の不満は大きいものでした。他収容所と比較する数字が明らかになっていますので確認してみてください。
     収容所名        敷地面積(u)     収容人数
     久留米          29000          1319
     坂東            57000          1028
     習志野          95000          918
     青野原           22680          478
     似島            16000          548

             (収容所中央広場に整列した俘虜たち)

 歴代所長のエピソード
1 樫村弘道(大正3年10月6日から大正4年5月25日)
  ミシェル・ソーレ神父が週に1回儀式を執り行うことを許可しています(07/5/8「ミシェル・
 ソーレ神父の足跡」を参照)。この縁が松尾ハムに繋がります(次回に詳論)。
2 真崎甚三郎(大正4年5月25日から大正5年11月15日)
  真崎所長は後の2・26事件の黒幕と囁かれる権威主義的な人物でした。俘虜と衛兵との
 日常的なトラブルは頻繁に起こり俘虜の逃亡事件や所長による俘虜将校殴打事件すら起
 こりました。真崎所長は子細な規則違反に対しても厳罰で臨んだため俘虜たちの反感も強
 く、そのことが更なる強権的管理を招くという悪循環を引き起こしていました。 ただ音楽には
 寛大で「ドイツ人にとって音楽は日本人にとっての漬物のようなものだ」としてコンサートを
 許可しています。これが所内での充実した音楽活動に結実します(次回に詳論)。
3 林銑十郎(大正5年11月15日から大正7年7月24日)
  遠足・スポーツ大会・工事への使役・野菜栽培の奨励など、俘虜の健康に留意しました。
 このことが所内におけるスポーツの興隆に繋がります(次回に詳論)。
4 高島巳作(大正7年7月24日から大正7年9月7日)
  他の収容所への移転を担当。190名の俘虜が習志野・坂東・青野原・名古屋へ移転しま
 した。自身はシベリア出兵に従軍するため久留米から転出しています。
5 渡辺保治(大正7年9月7日から大正9年3月12日)
  収容所閉鎖まで担当。隣接する畑を整地しスポーツ環境が改善しました。俘虜が音楽の
 練習をしているときに良く聴きに来たそうです(大正時代のゆるさを感じますね)。

  大正8(1919)年6月、ヴェルサイユ条約が結ばれると俘虜は順次帰国の途に就くことになりました。大正9年1月26日に最後の俘虜118名が解放され、同年3月12日に久留米俘虜収容所は閉鎖されました。収容所内で亡くなったドイツ人11名の慰霊碑が久留米競輪場下の一画にもうけられています(08年5月4日「久留米競輪2」を参照してください)。 
  

  
 塔の碑文  SCHWERT ENTWUNDEN DURCH SCHICKSALS MACHT  GEFANGEN GEBUNDEN SANKT  IHR ZUR NACHT  (運命の力によって剣を奪われ、捕らえられ、拘束されて君らは夜の帳に沈んだ)
 台座の碑文  ZUM GEDAECHTNNIS DEN KAMERADEN DIE FERN HEIMAT STARBEN  (故郷遠く没した 戦友達を偲んで)
 収容所内のドイツ兵の様子と久留米への影響は次回に詳論いたします(続)。

* 2018年12月に追記。
  鳥栖在住の郷土史家・横尾義明様より「白川公園下の地下タンク」の調査について貴重な資料(設計図)をいただきましたので報告します。
 

 

 
 第1軍用水源地の第5号井戸のドーム型天井は厚さが約45センチメートルもあり、鉄筋も入っている頑丈なものでした。
 
天井部分を取り外すと今も水が貯まっています。水の状態も良く透き通っています。俘虜収容所のみならず近くの軍関係施設の飲料水として不可欠の水源だったことが判ります。
 
 貴重な資料を提供いただきました横尾様に感謝申し上げます。