■2014年08月11日(Mon) 蒲池の姫君
 西鉄大牟田線に「蒲池」という駅名があります。現在の柳川市北部に残る地名です。今回はこの蒲池を舞台にした2人の姫君の物語です。以下、大城美知信他「柳川の歴史2・蒲池氏と田尻氏」(柳川市)河村哲夫「筑後争乱記・蒲池一族の興亡」(海鳥社)中川原廣吉他「ふるさと歴史探訪」(有明新報社)吉永正春「筑後戦国史」(葦書房)等を基礎にして御紹介します。

 古代において筑後には中央権力を脅かした豪族・磐井がいましたが(11年8月15日「磐井の乱と八女古墳群」参照)、中世において筑後に大勢力は出ず、弱小領主たちが互いに牽制する状況が続いていました。そのため筑後は他強国の草刈り場的な地勢にあり、特に豊後の大友氏の勢力下にある時期が長く続くことになりました。
 筑後領主(国人・国衆)のなかで最大の勢力を誇ったのが蒲池氏です。蒲池氏の出自や系譜には明確でないところも多いようですが、通説的には次のとおり理解されています。
 1 「祖系蒲池氏」(藤原純友の乱を契機とする)
 2 「地頭系蒲池氏」(鎌倉幕府の御家人となり地頭に任ぜられた)
 3 「松浦系蒲池氏(前蒲池)」(承久の乱後に肥前松浦党との繋がりで繁栄した)
 4 「宇都宮系蒲池氏(後蒲池)」(宇都宮家から養子に入り蒲池家中興の祖となった久憲を
  始祖とする家系)「後蒲池」は後に蒲池の勢力を弱めようとする大友氏から上下2家に分
  断させられている(下蒲池が本家・上蒲池は立花町山下城主)。

 蒲池城は松浦系蒲池氏が天慶の初め(938年頃)現在の崇久寺西側一帯に築いた城です(Googlemap)。後の時代に廃城されているので周囲は田んぼや宅地になっています。崇久寺の西北に「蒲池城跡」の碑が民間有志の手により建てられています。
 上記「蒲池城跡」の碑がある場所が本当に蒲池城の中心であったかに関しては異論もあるようです。この地域の西に三島神社があります。三島神社は周囲を堀で囲まれており神社としては変わった雰囲気です。蒲池城の中心はここにあったと考える史家もいるようです。



 後蒲池氏5代治久は現在の柳川市坂本町(日吉神社あたり)に柳川城を築き蒲池城の支城としました(Googlemap)。治久は同じ頃それまで「長福寺」と呼ばれていた後醍醐天皇の勅願寺を「崇久寺」と改名して蒲池氏の菩提寺としています。7代鑑盛は柳川城を拡大して本城とし、蒲池城を支城としています。このころが蒲池氏の最も栄えた時代だったようです。

 蒲池氏は大友の支配下にありましたが、天正6(1578)年の「耳川の戦い」(日向)において大友が島津に大敗すると肥前の龍造寺隆信の勢力が強くなりました。8代鎮並(しげなみ)は天正9(1581)年、龍造寺隆信によって佐賀で謀殺されます。経緯は次のとおり。
 龍造寺隆信は耳川敗戦で大友の勢力が弱くなったことを感じるや、筑後大友諸将に働きかけて自分の勢力下に置きます。鎮並も同様です。が、猜疑心の強い隆信は天正8年、鎮並に謀反の疑いをかけ柳川城を包囲します。しかし何十にも堀やクリークで囲まれた柳川城は要害堅固であり力づくでは落とせませんでした。そのため隆信は鎮並の叔父(鎮並の母の弟)である鷹尾城主・田尻鑑種(あきたね)を使って鎮並といったん和議を結びます。天正9年に隆信は再度鎮並に謀反の疑いをかけますが、前年の反省から正面攻撃はせず、「友好の宴を催す」という大義名分で佐賀に呼び寄せ、その帰路、与賀神社近くの馬場で待ち伏せして謀殺するのです。(Googlemap)。(解説板

(*解説板の文章は史実をかなり歪曲して作られているように私は感じます。「どんな行き違いであったか」という他人事ではありませんし「やむなき会戦」でもないのです。)

 さらに隆信は田尻鑑種を使って留守の柳川城を落とすとともに蒲池残党が立て籠もる他の支城にも総攻撃をかけて、蒲池(宗家)の者をほぼ全滅に追い込むのでした。
(*ルイス・フロイスはこの状況を著書「日本史」第2部24章で詳細に記しています。) 

 「南筑明覧」という書物によると、柳川城陥落後、城を逃げた鎮並婦人(玉鶴姫・龍造寺隆信の実娘)や侍女たち108人は追っ手を逃れて隠れていましたが、「もはやこれまで」と覚悟し、全員が自刃したそうです。塩塚駅の西に位置する宗樹寺の前に悲劇を伝える「蒲池氏百八人塚」の碑が残されています。(Googlemap)

 
 かようにして筑後の名門蒲池氏宗家は皆殺しになりましたが、奇跡的に命を救われた者がいました。鎮並の娘・徳子です。当時14歳の徳子姫は侍女らの機転で柳川を脱出し、島原半島まで落ち延びます。そして城主・有馬義信の庇護を受けるのです。 河村前褐書によると、徳子は当初自分の身分を明かそうとしませんでした。が、島原の城で行われた七夕の祭りの際「自分にはもう家族がいないのだ」という悲しみを込めて

       いざさらば 何をかかげん 七夕に 涙の他は 身にそわばこそ

 と詠みました。この歌が城主有馬義信の耳に届きます。徳子が名門蒲池氏の姫君であることを知って、義信はこれまでの非礼をわび、以後徳子は大切に育てられました。徳子は蒲池氏の主家である大友家の重臣(朽網家)に嫁ぎ、66歳の人生を全うします。こうして筑後の名門・蒲池家の生命は後世に伝わることになるのです。

 菩提寺である崇久寺に徳子の墓があり「見性院心妙安大姉蒲池徳女」と刻まれています。




 徳子姫の子孫はその後も生命をつなぎ「蒲池」の名を世に残し続けました。徳川の世になり蒲池の名を受け継いだ応誉上人は柳川の名刹・良清寺の開祖となりました。(Googlemap) 
その子孫が良清寺の住職を継いでおられます。

 良清寺は柳川藩祖立花宗茂が正室ァ千代(道雪娘)を弔うため元和7年(1621年)に応誉を招いて建立したものです。応誉は蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の三男蒲池統安の次男。応誉子孫は代々住職を勤めると共に還俗して蒲池を再興し藩士として寺を守り現在に至っています。

 良清寺先代住職の弟さんは公務員となり久留米市荒木町に住んでいました。私と同じ昭和37年にこの家に生まれた女性は法子(のりこ)と名付けられます。「仏法に縁がある家の子として健やかに育って欲しい」との親御さんの願いが込められているのでしょう。

 蒲池法子さんは久留米で育ちますが18歳のとき「裸足の季節」でメジャーデビューします。法子さんは瞬く間に1980年代の歌謡界を席巻する歌姫となりました。
 蒲池法子さんが成功した要因として本人の才能があったことは間違いありません。が、芸能界は素晴らしい才能に恵まれた人が多く集まる世界です。かような厳しい芸能界で長い長い時間を生き抜いていくためには、何らかの「他力」(自分だけの力を超えた何か・神様から愛される何か)が必要だと私は感じています。素晴らしい才能に恵まれながら、そういった神様の愛を得られずに埋もれていった芸能人は山のように存在するからです。
 私は「蒲池の生命を後世に伝えた徳子姫の祈り」が、数百年もの時を経て、現代の歌姫である蒲池法子さん(芸名・松田聖子)に幸いをもたらしたに違いないと感じています。

* 荒木中学校の正門は平成9年11月2日に創立50周年記念事業で創設されていますが、
 寄贈したのは荒木窯業株式会社と蒲池法子さん(第30回卒業生)です。
* 佐賀与賀神社には胸高周囲6メートル超の大楠が3本もあります。なかでも本殿向かって
 左の1本が際立って巨大です。推定樹齢1400年。この木は眼前で繰り広げられる悲劇を
 見つめながら今日までの時を過ごして来たに違いありません。