■2019年11月06日(Wed) ちょっと寄り道(北山歴史散歩)
 京都に出向く用件があったので北山を歩いてみました。これまでスピリチュアルゾーンという観点で歩いたことがなかったので新鮮な印象を受けました。1日目は「千本通り」を歩き、2日目は北山を象徴する「足利義満」という政治家について考えてみたいと思います。
(参考文献)小林丈広「京都の歴史を歩く」岩波新書、中西宏次「京都の坂・洛中と洛外の『境界』をめぐる」明石書店、ツラッテイ千本「千本のまち・人とそのあゆみ」、新版古寺巡礼「金閣寺」「等持院」淡交社、九州国立博物館「室町将軍展公式図録」、佐藤進「足利義満」平凡社、伊藤喜良「足利義満」山川出版社、高野悦子「二十歳の原点」新潮文庫など。

 京都駅で新幹線から山陰本線に乗り換える。列車は旧梅小路機関区を過ぎた辺りで北に進路を向ける。ここから二条駅までの線路が平安京の朱雀大路に重なる。二条駅を過ぎると線路は左に曲がる。旧朱雀大路上に伸びるのが千本通りだ。平安京開設時点の朱雀大路は道路幅70・2メートルで、側溝や築地塀を入れた幅は84メートルと推定されている。
 花園駅を降りる。北に歩くと妙心寺。その宿泊施設「花園会館」を拠点とした。フロントに荷物を預けて出発する。市バスに多く乗る予定なのでバス一日乗車券を購入した(600円)。妙心寺前バス停から乗車し丸太町通りを東に行き千本丸太町で乗り換える。この交差点には「平安京内裏跡」を示す説明板が設置されている。往時の平安京は(今の京都の感覚から言うと)西南に偏って位置する。今の京都市街が東北方向に偏って形成されたとも表現できる。これは京都盆地が東北方向から南西方向にかけて低くなっている地理的属性に由来する。低地である右京の衰退と同時に朱雀大路はその実体を失っていったのである。
 千本今出川でバスを降りる。この交差点は今でこそ何の変哲もない普通の交差点だ。が、千本通りが朱雀大路の跡に形成された南北の要路であり、今出川通りが御所から西進する東西の要路である以上、千本今出川交差点は京の重要な場所なのだ。
 平安京の内裏は右京の衰退にしたがって「内野」と呼ばれる雑種地に変貌した。船岡山の西は「蓮台野」という名の葬送地となった。ここに葬送を職業的に担う人々が集まり、死を表象する社会的な装置が組み立てられていく(2018年1月2日「鳥辺野歴史散歩」参照)。左大文字山が近くに設けられたのも蓮台野(先祖の精霊送りの地)の存在を背景としている。
 北に歩くと左手に千本焔魔堂がある。鳥辺野の六道珍皇寺と同様、小野篁を開祖とする伝承を持つスピリチュアルな寺だ。六道の裁判官である閻魔大王が中央、両脇に検察官役と書記官役の各像が祀られている。職業柄「司法博物館」(松本市)に残されている旧刑事訴訟法時代の刑事法廷をイメージしてしまう(写真撮影は禁止)。今も小野篁伝説が生きており、冥界にある先祖の霊は盆期間中は各家庭に戻り、盆が過ぎるとこの寺から冥界に帰って行くという信仰が存在している。本堂裏には赤い布をかぶせられた地蔵菩薩が多く祀られている。庶民信仰の厚さを確かに実感することが出来る貴重な場である。
 北に歩くと上品蓮台寺。かつては道路から墓場が見えた。それは葬送地として蓮台野を象徴する風景であった。現在は路沿いに高い壁が構築されており、道路からは墓場が見えなくなっている。右手に船岡山が近くに見える。当時は船岡山から南のラインこそ京の中心だった。付近に近衛天皇の墓がある。近衛天皇は崇徳上皇や後白河上皇の異兄弟。3歳で即位し17歳で病死したとされる。皇族である崇徳と後白河は「保元の乱」で戦い、崇徳が敗北した。讃岐に流された崇徳は怨念を抱いて死去したので、長い間祟り神として畏れられていた。崇徳方の主力・源為義は船岡山で源義朝により処刑された。応仁の乱においては船岡山が西軍の拠点(船岡城)となった。これが「西陣」という地名の元になっている。
 千本北大路交差点を渡る。左斜めに特徴のある建物がある。「ツラッティ千本」と名付けられている。京都市人権文化推進課が運営している施設である。ツラッティとは「連れ合って」という意味の言葉だそうで、建物内において京都市の都市整備と同和行政の展開が詳細に説明されている。千本地区のあゆみも詳しく図示されている。差別を表す直接的な言葉の記された地図類が何らの補正も施されず展示されている。この「隠さない」というメッセージは「解放運動の中で形成されてきた重要なコンセプト」なのだ(@中西宏次)。豊富な説明資料を拝見した後、その北側に拡がる「改良住宅」の街並みを歩くと何とも言えない感慨がある。
 佛教大学の辺りから道は上り坂となる。旧御土居長坂口に。東北東から来た御土居のラインがこの地で左に直角に折れ曲がり南南東に向かう処だ。削平されないで残った御土居の史跡公園がある。御土居とは秀吉による京都改造の目玉として構築された洛外と洛中を分ける土塁である。その出入口は7つ。長坂口は西北方面の出入口であった。
 光悦寺に向かう。ここは「洛外」にある。本阿弥光悦がこの地に芸術村を形成したのは慶長20(1615)年(大坂夏の陣の年)。徳川政権が辺鄙な場所に光悦を追いやった背景として諸説あるが、説得的なのは、光悦が豊臣家との関係を疑われて自害させられた古田織部と親しかったので、懲罰的意味も込めて長坂口外側に彼を追いやると共に、この付近の治安対策をさせたという見方である。徳川政権は「豊臣時代の記憶を抹消すること」に大変な力を注いでいたので「徳川ならやりたそうな政策」と思わされる。光悦寺の紅葉は有名だが、未だ気温が高いためか色づきは全くしていなかった。近くの茶屋でぜんざいをいただく。ほっこり。
 ここから京見峠までの急な坂道が狭義の「長坂」である。京見峠から眺める京の風景に凄く興味はあるのだが今回は時間がないので坂を登るのは断念。光悦寺の付近からタクシーに乗って千本今出川の南側で降りる。今度は南にむかって歩くことにする。
 少し歩くと「千本座」跡地がある。千本座は「日本映画の父」とされる牧野(マキノ)省三の開設した映画館だ。日本の映画産業の草分けとなった処である(撮影所の件は後述)。
 1本西側の路地に拡がっていたのが五番町。水上勉「五番町夕霧楼」で著名になった遊郭である。遊郭と言っても江戸時代の島原のような高い格式を誇る遊里ではない。江戸でいう岡場所的な、庶民向けの遊里であった。今は普通の住宅街である。昔の雰囲気を感じさせるのが映画館「千本日活」。その先の路地に焼肉「江畑」がある。遊郭の建物を利用した店だ。私は7月にこの店に来て夕食をいただいた。建物だけでなく肉の味も絶品である。
 五番町の路地を西北に向かうと北野天満宮の門前に至る。全国に存在する天満宮の本宮だ。本来「天満宮」とは京都北野をいう。北野は(平安京成立以前は)渡来人・秦氏の開発地として知られる。当時から雷神=天神を祀る地として認識されていた。かかる性格を持つ地に(清涼殿への落雷をもたらした)菅原道真信仰が習合し、北野天満宮の創建に至った。京に於いて菅原道真は祟り神(呪う神)だった。現在の「学問の神様」(祝う神)に変わったのは太宰府天満宮の西高辻宮司が、戦後の受験戦争(教育ブーム)を見据えて、菅原道真の読み替えを行ったからである(2017年9月2日「太宰府歴史散歩」参照)。多額の奉納金をもたらす「受験の神様」としての御利益が筑前太宰府から京都北野にもたらされたのだ。
 10世紀に創建されて以後、北野天満宮の社殿はたびたび兵火にかかり焼失した。桃山様式の社殿は慶長12(1607)年に豊臣秀頼が寄進したものである。北野大茶会で知られるように天満宮と豊臣政権の関係は深いモノだった。が、天満宮と権力者の密接な関係は豊臣政権が初めてではない。足利政権こそが最大のパトロンだった。北野天満宮の成立直後から鎌倉時代にかけ、その所領は筑後国川北荘(現久留米市北野町)など僅かだった。足利政権の初代尊氏と弟直義は戦勝祈願の見返りとして北野天満宮に多くの所領寄進を行った。戦乱を媒介項に足利将軍家と天満宮は深い関わりをもった。3代将軍義満も多数参詣した。当時、北野社は延暦寺の末寺だったが、義満は松梅院という塔頭を設けて自分の息がかかるようにした。財政的援助により松梅院の地位が上がり、延暦寺の権力が相対化されたのだ。
 近くには上七軒という舞子さんの歌舞練場がある。現在、京の歌舞練場で祇園以外にあるのはこの上七軒だけである。祇園に比べれば小規模であるが昔の面影を残す貴重な場だ。歌舞練場の喫茶室が開いているのを偶然に発見したので立ち寄ってコーヒーをいただく。
 暗くなってきた。天満宮前からバスに乗って花園会館に戻る。1日目はこれで終了。

 2日目の朝。早めの朝食をいただく。チェックアウトを済ませて花園会館を出る。無数の松に彩られた妙心寺の広大な伽藍を抜けて北門を出る。5分程歩くと嵐電妙心寺駅がある。ここから嵐電に乗り2つ目の等持院駅で降りた。この辺りは地名に「等持院」の名が残されていることが判る。狭い道路を北に向かって5分ほど歩くと等持院の地味な山門がある。等持院は足利将軍家の菩提寺である。この寺に初代将軍足利尊氏・二代義詮の墓が置かれている。三代将軍義満が荼毘に付されたのもこの寺だ。将軍家菩提寺にしては狭い。皇国史観が吹き荒れた時代に「逆臣」とのレッテルを貼られた足利家の菩提寺であることは難儀だったであろう。かかる逆風の中を「現在までよくぞ生き残ってこられた」と思う。
 等持院山門をくぐると左に普通の住宅街がある。ここは撮影スタジオだったところである。等持院は足利将軍家の菩提寺であるとともに、境内に映画撮影所を持つという極めて特異な歴史を有している。墓地の前に創設者・牧野省三の銅像が設置されている。昭和45年に太秦から移転されたものである。銅像は昔の栄光を懐かしむように住宅街を見下ろしている。
 等持院境内に牧野教育映画製作所の撮影スタジオがつくられたのは大正10(1921)年のことである。大正13年、牧野教育映画は東亜キネマと合併しスタジオは「東亜キネマ等持院撮影所」となる。京都に於いてこの時期に映画産業の興隆がもたらされたのは、大正時代が好景気だったこと(第1次大戦後のバブル)と大正12年9月発生の関東大震災により浅草オペラのスタッフたちが職を失い京都になだれ込んだことが影響したからだという。
 等持院の拝観時間は午前9時からなので20分ほど時間がある。裏門を出て北に接する立命館大学に向かった。立命館高等工科学校が等持院境内(約8000坪)に移転したのは昭和14年である。戦後、工科学校は立命館大学工学科に昇格した。立命館のメインキャンパスは河原町通広小路にあったが、衣笠への移転が徐々に進み、昭和56年に大学全体の移転が完了した。これによって等持院境内は南北に分断された。現在、等持院の北墓地に行くには立命館を横断する難儀を強いられている。キャンパスの中を通り北墓地を拝見する。
 立命館大学を創始したのは西園寺公望である。彼が明治2(1869)年に私塾「立命館」を創始したことに遡る。もともと鹿苑寺の地は西園寺の別荘だったところだ。ここに接する土地を立命館が等持院から買収したという流れに歴史的御縁を感じずにはいられない。
 立命館で思い出す本がある。高野悦子「二十歳の原点」(新潮文庫)。私は高校生時に読んだ。特徴的な題名に釣られて買ったのだが、学生運動の気配が少し残っていたので背伸びをしていた田舎高校生の私は違和感を感じることなく読み進めた。印象に残る言葉。
   「世間を知る」という言葉には、その体制に順応してヌクヌクと生きていくという意味が、
  一面だがある。「幼い、バカだ、世間知らずだ」私は良くこう言う。しかし悦子よ何も卑下
  することはないのだ。自分を大切にせよ。(略)私は慣らされる人間ではなく創造する人
  間になりたい。「未熟であること」「孤独であること」これが私の二十歳の原点である。
 世間に対して違和感を感じていた自分の記憶に重なる。創造する人間に憧れて社会への同化を拒んだ私にとってもこの本は「二十歳の原点」であった。高野悦子さんは昭和44年6月24日(私が7歳の頃)に山陰線の踏切で自殺されたという。ご冥福を祈り合掌。
 午前9時を過ぎた。等持院に戻る。私は本年7月から9月まで九州国立博物館で開催された「足利将軍展」を拝見した。目玉とされていたのが等持院の歴代将軍像だった。特に足利義満の像は将軍展の象徴としてポスターやチケットにも採用されていた。私は将軍像を現地で拝見したいと願い今回の等持院訪問を楽しみにしていたのだが建物の改修時期にあたっていて庭園以外は拝観不可であった。代償として受付の女性と雑談する。等持院駅付近の「等持院」が混じった地名は昔この寺の境内だったということか?との質問に女性は「そうです」と明確に答えられた。北に接する立命館大学の地も等持院の敷地だったのか?という質問には「そうだと思います」と答えられた。おそらく室町時代の等持院は(妙心寺の如き)広大な敷地面積を誇っていたのであろう。吹き荒れた皇国史観(南朝中心史観)の中で悪者にされた足利将軍家菩提寺・等持院は苦難の歴史を歩んできたのであろう。かかる等持院の苦難の歴史を感じつつ、素晴らしい庭園を眺めながらいただく抹茶の味は格別であった。
 等持院を出て東に向かう。八丁柳の佐井通りに出る。両側に普通の住宅地が拡がっているが、ここは足利義満の時代に「北山新都心」構想の中核を為す要路だったところ(細川武稔氏の研究による)。高橋通りとの交差点に惣門、一条通りとの交差点に大門が構築されていたようである。応永9(1402)年、義満を「日本国王源道義」と冊封する皇帝の詔書を携えた明使節は八丁柳の両側に武士団が並び立つ中、北山第へ向かった。閑静な住宅街となっている八丁柳は明の外交使節を招くための極めて重要な道路だったのである。
 「きぬかけの道」と呼ばれる道路を横切って鹿苑寺に入る。世間的に「金閣寺」として知られている、この寺院は室町時代に足利義満の政治が展開された「北山第」だったところである。足利義満は足利政権(室町幕府)の支配を盤石にした将軍だ。初代尊氏や2代義詮の頃は全国的争乱(60年にわたる南北朝の争乱)が続いており幕府権力は不安定だった。武家政権内部の勢力争いすら残存していた(2009年12月11日「大原合戦650年1」参照)。この中で義満は永和4(1378)年に右大将になり(当時は征夷大将軍ではなく右大将こそ重んじられていた)永徳元年(1382)には24歳の若さで内大臣になる。義満は(それまで祖父や父が使用した)武家風ではなく公家風の花押を使用するようになった。義満政権が「単なる武家政権」ではなく「公武に君臨する政権」であることを誇示するものであった。
 そもそも「室町時代」という呼称自体が義満が室町に設置した政庁に起因している。義満は公家から課税権を取り上げ、伝奏も支配した。精力的に朝儀や遊宴に参加して公家社会における主導権を握った。朝儀には誰より早く姿を見せて自分より後に来た者を叱責した。周囲にいた者の一部には心労のために突然死(過労死)する者もいたそうである。今風の表現を使えば、義満はパワハラ的な体質を濃厚に持っていた人物であったと言えるのだろう。
 明徳2(1391)年、義満は京・内野の戦闘において山名氏清らを破り武家としての実力も示した(明徳の乱)。他方で明徳3年には「南北に分裂していた朝廷の合一」という高度な政治的難題をも解決してしまった。これによって義満の政治力は最高度に達した。
 応永元(1394)年、義満は将軍の職を義持に譲り、自らは太政大臣となるも、半年で出家する(当時「出家すると長生きする」という信仰が広まっていたからだとされる)。
 義満は西園寺氏の別荘を譲り受けて「北山第」とした。それから義満が死去するまでの約10年間、北山第は日本国内における最高の政治の場であり社交の場でもあった。
 国内関係だけではない。対外関係においても義満の存在感は突出していた。橋本雄氏によれば義満は明から「勘合貿易」をする相手としての資格を認めてもらうため漢文脈(国際的視点)においては臣下の礼をとりつつ和文脈(国内的視点)においては自分こそ上であるとの振る舞いをとった。かようなダブルスタンダード(2枚舌)こそ現代に通じる日本人政治家の典型的な行動パターンなのであろう。義満以外の足利将軍家は明からの冊封を受けることに一貫して消極的であったが義満は「日本国王」にこだわった。橋本氏はその理由として2点を挙げる。@南朝の良懐(和名・懐良親王)が自分よりも前に日本国王に認定されていたので、これを排除する必要があった。A幕府の財政が逼迫しており貿易による利益を上げたい思惑があった。義満はそのため明使を日本に呼ぶのだが、漢文脈では儀式において「明使が先に昇殿し南面して義満を迎えるべき」ところ、実際の北山第の儀式は「先に義満が昇殿し南面して明使を迎える」形式をとった。「日本国王」という名称も「勘合貿易のための資格」に過ぎず国内的には朝廷(天皇家)に配慮してほとんど使われていないらしい。
 応永15年、義満が死ぬ。葬儀は等持院で行われた。参列した禅僧は3000人に達した。
 義持は父の政治路線を否定し、三条坊門殿に移り住んだ。明との国交も絶った。舎利殿(通称金閣)を残し北山第は取り壊した。義満の遺言に従って禅寺(鹿苑寺)に改めた。戒師には夢窓疎石を迎えた。これが現在「金閣寺」と俗に呼ばれている寺院である。以後、秀吉により寺は修復され、事後の江戸幕府も修理に努めた。江戸時代の屏風においては舎利殿は黒い建物として表現されている。舎利殿は(金箔が落ちた)地味な建物だったのである。
 この舎利殿が焼失したのは昭和25年7月2日だ。この寺で修行していた青年僧の放火による。三島由紀夫は昭和31年に小説「金閣寺」を上梓する。三島の特異な感覚を秀麗な文体で綴った本作品は世間を驚愕させた。私も大学生の時に読んだが、あまりの観念性の強さに辟易した。同じ気分を強いられた読者は多くいたと思う。水上勉はリアリズムに満ちた「金閣炎上」を昭和54年に著して、既に自害していた三島由紀夫に文学上の復讐をした。それは(実行犯である青年僧と同様)家が貧しく、10歳で相国寺の僧になった経歴を持つ水上勉の挟持の表れであったのだろう(ちなみに鹿苑寺は相国寺の塔頭寺院である)。
 昭和30年、舎利殿は見事に再建された。昭和25年まで黒っぽい渋い印象だった舎利殿は文字通り「金ピカ」の光り輝く建物に生まれ変わった。おそらく、義満が政治を行っていた頃の北山第に近いのは再建後の現在の姿なのではなかろうかと思う。
 鹿苑寺内の他の建物の内容や配置は義満時代とは変わっている。既に政治の場としての機能を喪失し観光寺院になっているのであるから当然のことである。1点だけ強調すべきことがある。北山第時代においては境内に大塔があったことだ。義満は院政を開始した白河法皇を強く意識していた。法皇は白河に法勝寺九重塔(約81メートルと推定される)を建てていた(2017年4月3日「鴨東歴史散歩」参照)。義満は応永6(1399)年に相国寺内に七重塔を建てていたが落雷で焼失した。そのため義満は改めて法勝寺九重塔を越える大塔を北山に創ったのである。現在比定されている場所は境内東の大型車両駐車場や茶屋などが設けられている所であり、2015年に発掘調査が為された際に金属片3点が確認されているという。これらは塔の最上部にもうけられた相輪の一部ではないかと考えられている。
 現在、鹿苑寺には東から入る。しかし義満の時代には南から入った。南から北山第に入った使節団は「左に舎利殿・右に大塔」という景観を目にした。それは足利義満の力を明の使節に見せつけるものであった。私は脳内にその光景を再生し感慨にふけっていた。
 暑いので鹿苑寺売店で抹茶ソフトを食べながら、少し考えごとをする。
 現在、京の西北に位置する北山は金閣(鹿苑寺舎利殿)や北野天満宮(桃山様式本殿)などの金ピカの印象が強く「華やかな地」というイメージを持たれている。が北山を広く捉えるならば船岡山の西には葬送地とこれを背景にした差別の磁場があり、あの世への出入口という世界観も存在した。上七軒や五番町という女性の世界も拡がっていた。北山は独特のパワーを持つ地。鳥辺野(京の東南・北山の反対側)と似た構造を持つスピリチュアルな地と表現することもできる。だからこそ北山は足利義満にとって権力の源泉となったのだ。
 しかし義満が北山にこだわったのはそれだけが理由ではないと思う。義満は教養面に於いては公家であった。公家感覚において君子は「南面すべき」ものである。内裏の北に相国寺を設けた義満にとり北山こそは外交使節を含む諸人を「南面して」迎え入れるに最適の地なのであった。北山は微高地であるから上から見下げる感覚も公家的教養を満足させた。他方、義満は武家でもあった。義満自身が実戦に加わった「明徳の乱」は内野(平安京の内裏跡)で戦闘が行われた。義満は戦闘で死んだ者のパワーをも自分の政治に取り込もうとしたのだと思う。かかる強い力を得た義満は、国内的にも・国際的にも、日本史上特異な地位を築き上げた。その謎を解くことは日本の歴史を解明するにあたって不可欠の課題なのだと私は思う。そんなことをあれこれ考えながら私は市営バスに乗って北山を後にした。(終)

* 鹿苑寺(金閣)内部の地形的特徴については梅林秀行「京都の凸凹を歩く2」(清玄社)
 の44頁以下を参照してください。西園寺氏所有時代からの変遷が良く判ります。

* 本文で引用した橋本雄先生の見解は「室町将軍展公式図録」(224頁以下)によったも
 のですが、詳細を知りたい方は橋本「中華幻想・唐物と外交の室町時代史」(勉誠出版)を
 参照して下さい。他に小島毅「足利義満・消された日本国王」(光文社新書)もお勧めです。