■2017年06月01日(Thu) 山ノ井堰と人柱
(本稿は08年10月にアップしていたものですが、その後に発生した九州北部豪雨の被害をふまえ記述を大幅に書き加えました。被災時・被災後の写真も加えています。)

 私の出身地である八女郡黒木町から国道442号線で八女市に向かう際は星野川にかかる山内橋を渡ります。橋を渡ってすぐ右脇に公園があり巨大な石碑があります。この場所に何故石碑があるのかを知る人は多くはありません。そもそも石碑が存在する場所が堰であることを認識している方が少ないと思われます。堰の中に民家や公園があるため俯瞰的観点で堰の全体像を認識することが難しいのです。が、現代のネット技術は簡単に俯瞰的観点を与えてくれます。(GoogleMap)星野川が堰により北(右)側に水流を変えられて山ノ井川に導水されている様子・左の方に2本の水抜きが作られている様子がお判りでしょうか?

      ( 北側坂上「和食のたまご本舗」から見る山ノ井堰・上流(東)側)

     (下流(西)側・中央にあるのが水抜き・右側の赤が山ノ井川取入口)

   (堰上流・石張りをコンクリート補強)      (山ノ井川の取入れ口)

      (中央の水抜き)             (下流部の水抜き・上は国道442号線)
 では本題に入ります。
 時は寛永19(1642)年、将軍家光の時代です。八女市の北方にある吉田村は緩やかな丘陵地帯となっており、水さえあれば、とても良い農地となり得る場所でした。しかし、星野川は低いところを流れており、農業用水として使うことが出来ないため、日照りになると直ぐに農作物が駄目になってしまいました。そこで久留米藩の役人は村を仕切る庄屋に対して収穫を上げるように言い伝え、そのために星野川から用水路をひくよう厳命しました。
 村民総出による大土木工事が始まりました。吉田村まで通じる用水路を造り、なんとか器が出来ました。あとは川を堰き止め取入口から用水路に流すだけです。が星野川は急流です。堰き止めるのは大変な工事です。江戸時代ですから堰は山田堰と同様のななめ堰です(08年8月12日「山田堰と水車群」参照)。即ち川の中に大量の土嚢や石を斜めに並べて全体の水位を堰き上げ、増水に対しては堰の中に数本の水抜きを作りこれを通して過度の水位上昇を防ぎ、更なる大増水に対しては余水が堰の上を越えていく構造です。問題は斜めに並べた大量の土嚢や石による堰を、大雨の時でも水流に負けないように、強く築けるか否かです。
当初つくった堰は大雨による濁流で簡単に流されてしまいました。
 当時、自然の力には神が宿っていると信じられていました。水の流れを人間の力で変えることは神に逆らう行為として認識され得ることです。ゆえに築いた堰が流されるのは「人間の行いを水神様が怒っているからだ」と村民が認識するのは当然のことでした。吉田村の庄屋・中島内蔵助はこういった村民の心を知り、何百人もの村民の前で次のように述べました。
      水神様から人柱(ひとばしら)を立てるようにとお告げがあった。それは明日の朝
     集まるときに、草履の緒が左結びになっている者だ。
 村民達は驚き、明日は絶対に左結びの草履を履かないように決意しました。誰も死にたくはないので皆が右結びの草履を用意し、何が何でも明日はこれを履いていこうと準備を整えました。翌朝、工事現場に村民が集まりました。皆が右結びの草履を履いてきました。人柱になるべき、左結びの草履を履いてくる者はいませんでした、ただひとり中島内蔵助を除いては。
そのとき初めて村民の誰もが内蔵助の思いを理解したのです。
 その後、精力的に工事は続けられました。内蔵助の思いを共有した農民らの仕事ぶりは、以前とは比較にならないほどで、大雨の時でも水流に負けないような立派な堰がつくられました。完成を誰よりも喜んだのは他ならぬ内蔵助でした。完成を見届けた内蔵助は、白装束に包まれて星野川に身を沈めました。内蔵助は水神様に捧げられたのです。
 こうして内蔵助は地域農民の「神」となり、その徳を顕彰するために堰の中に立派な碑が建てられるようになったのです。


 公園内の水天宮は久留米水天宮を本宮とするものです(06年11月26日水天宮界隈)が、祀られているのが安徳天皇らであるとは私には到底思えません。表向きはともかく、住民が信じているこの神社の「神」は中島内蔵助であると私には感じられます。


 中島内蔵助のお墓は八女市吉田・筑水会病院の脇にあります。現在も農家の方々やご親族の皆様方によって毎年秋に感謝祭が執り行われています。


 中島内蔵助の碑があるこの公園には、かつて学校がありました。変則中学中州校と言います。明治11年から16年にかけて、当時の郡立(上妻・下妻)中学校として設立されました。
生徒達は中島内蔵助の物語を繰り返し聞かされて育ったに違いありません。

 アメリカでポテトキングと呼ばれた牛島謹爾はこの中学校の出身です。久留米市梅満町で
生まれた牛島はこの学校で学んだ後、江崎塾(当初は八女郡黒木町に所在、後に上陽町に移転)で学びます(三越創始者である日比翁助と同窓です・07年1月17日歴史散歩)。
 牛島は26歳で渡米し、カルフォルニアで農場の経営に挑み、最終的には4万ヘクタールの
ジャガイモ畑を所有するほどに成功しました。以後、牛島は日米親善に尽くし無冠の大使とも
呼ばれました(2010の5・6・7「ポテトキング1・2・3」を参照してください)。

 中島内蔵助の物語は近くの小学校の校歌にも歌われ、近時は演劇の題材にもなりました。この物語が修身の教科書に採用されなかったのは(磔台が立てられただけで命を失うことはなかった五庄屋と異なり)生命を失った中島内蔵助の物語がテーマ的に暗すぎる上、人柱として人間を水神様に捧げるという行為が科学時代の者に共感されにくかったからではないかと思われます。もっとも大戦末期における特別攻撃が長期化していたら、この物語も「皆のため人柱になれ」という形で修身の教科書に採用されていたかもしれません。(2008年9月9日
「大石堰と五庄屋物語」を参照してください。)

 水を確保することは、かつて人間が生きることそのものでした。今もきれいな水を求めて彷徨う人々が世界中に存在します。日本でも人々は水を恐れ水に感謝を捧げてきました。その中で水にまつわる多数の物語が形成されてきたのです。こういった水と人間の物語の多くは高度成長期の大規模土木工事と人心の変容によって消滅してしまいました。
 が、幸い筑後地方には水と人間の生き生きとした係わりを示す痕跡と物語がまだかろうじて残っています。大事に保存し、語り継いでいきたいものです。(終)

* 山ノ井堰は九州北部豪雨で大変な被害を受けました。当時の状況をアップします。
 (「平成24年7月九州北部豪雨・災害と復旧復興の記録」より引用)。






  現在の写真をアップします。大きく被災した山ノ井堰は現在も尚、修復工事を
 施されています。5年近くになるのに未だ工事は続いています。

            (上流部に向かって撮影・修復工事)

            (水天宮は大きく被災・支えがないと崩壊する)

           (山内橋から見る水天宮遠景・大規模な護岸工事)

           (山内橋から下流を見る・両岸とも大規模工事)

* 執筆当時はあまり深く考えずに「人々は水を恐れ水に感謝を捧げてきました」と記してい
 ました。事後「水の怖さ」を表象する大きな出来事が立て続けに起きています。しかし「水の
 有り難さ」も普遍的なものです。人は水なしでは生きていけないからです。人間が水と調和
 しながら生きていく物語が今ほど求められているときはありません。(2017年5月後記)