■2019年10月02日(Wed) デパートの誕生
(* 本稿は2007年1月17日にアップしていたものですが、写真を取り直し構成も変更して
  リニューアルしました。末尾に参考文献も追加しました。)

 日本のデパートの歴史は明治37年(1904年・日露戦争勃発の年)に三越呉服店の専務取締役・日比翁助(ひびおうすけ)が「デパートメントストア宣言」をしたことに始まります。
 この時、東日本橋にあった三井呉服店は株式会社三越呉服店(三井の越後屋の略称)と改称します(越後屋とは家祖・三井高利が越後守と称したことから採用された商号です)。しかし日比がこの宣言をしたときにデパートの実質はまだ存在しませんでした。日比が呉服店のデパートメント化に精力を注ぎ、大正3年に日本橋で近代的店舗(エレベーター・エスカレーターを具備)を開設した時、日本のデパートメントストアの歴史は実質的に始まるのです。
 三越本館はルネッサンス様式で、金色を多用した華麗な装飾を持つ日本の百貨店建築の代表作。1914(大正3)年の建設ですが、関東大震災の火災で甚大な被害を受けたので、昭和2年に大改修が行われ、昭和12年にも増改築が為されて、ほぼ今日の姿になっています。設計は横河民輔率いる横河工務所。鉄骨鉄筋コンクリート造の7階建て(地下1階)です。
三井広報委員会・三越の歴史ホームページ
 
 

 日比翁助は万延元年(1860年)に、現在の久留米市櫛原町において、久留米藩士である竹井安太夫吉樫の次男として生まれた人です。生家跡は現在、東証上場企業の社長さんの御自宅となっています(私人の自宅なので場所の詳細は割愛します)。
 翁助は武士の子供として厳格な父親に育てられました。漢学の師・江崎済(わたる)を慕いそのために八女郡黒木町にあった江崎塾に学びます。塾は後に八女郡北河内町(現八女市上陽町)に移転し、北ぜい義塾と呼ばれました。この塾は八女の松下村塾と評される私塾で、ここから優れた人材が多数輩出しています。(アメリカで大成功しポテトキングと言われた牛島謹爾や陸軍大将となった仁田原重行が同窓です・2010年5・6・7月「ポテトキング1・2・3」および2017年6月「山ノ井堰と人柱」を参照してください) 。
 下記写真は黒木町の「学びの館」(旧隈本邸)に掲げられているものです・右が江崎済)。
       

 翁助は明治12年(1879年)に日比家の養子となり、小学校で教鞭を執っていましたが、福沢諭吉を慕って上京し慶應義塾に学びます。日比は明治30年(1897年)三井銀行に入行し翌年三井呉服店の支配人となります。これは当時の慶應義塾出身の三井銀行大阪支店長・高橋義雄が、中上川彦次郎(福沢諭吉の甥)を通じ、日比の人格を見込んで強力に呉服店入りを要望したからです。日比は「私は元は久留米藩士のせがれ。侍気質が抜けず商売の道には疎うございます。おまけに田舎育ちです。到底呉服店の番頭が務まるはずがありません」と拒みますが、高橋は「今の三井に必要なのは商才のある人物ではない。士魂を持った人物なのだ」と答えます。この言葉が日比の心の琴線に触れて歴史は動き出すのです。
 日比は以後「士魂商才」をモットーにかかげ職務に邁進します(当時の流行語「和魂洋才」をもじったものです)。明治31年に日比は三井呉服店副支配人に昇格し、呉服店改革を進めました。明治37年にデパートメントストア宣言をした日比は明治39年に欧米を視察した結果、ロンドンのハロッズ百貨店を目標と定め、事後は洋服・靴・洋傘など、百貨店としての幅を広げていきました。山の手に住む新興中産階級を主たる顧客に見据えていました。

 この頃の日比の苦労を林洋海先生(後褐書)は次のように要約しておられます。
 デパート自体が欧米でもまだ新規の業態で、日本でも一部で知られたばかりで「百貨店」という訳語さえなかった。「一ヵ所で全ての物が買い揃えられる店」というのが今日で言うコンセプトだったが、商品を仕入れるのさえ至難の業だった。デパートの商品というのは消費者がいつ行っても商品が展示されていることが条件である。しかし、まだ大量生産できる工業化が未熟な明治期に百貨を仕入れるためにはデパート自体が商品づくりを指導したり、問屋を整備したりと、生産流通までリードしていかなければならなかった。
 商品が展示できればそれで店が開業できるわけではない。販売担当の店員の教育もあった。越後屋の店員は丁稚に始まり手代・番頭と昔ながらの年季奉公でやってきた店員たちである。彼らの意識改革と教育も翁助は一手に引き受けなければならなかった。店づくりも大変だった。それまで呉服屋を始め日本の店舗には室内装飾というものが皆無だった。買い物を包装してお客に渡すという習慣もなかった。デパートという巨大店舗にはその売り上げを満たす集客が重要だが、その方法さえ無かった。(268頁)

 日比はその後、食堂の開設(お子様ランチが目玉でした)・屋上遊園地の開設(子供達の人気の的でした)・女性社員の採用(当時は画期的なことでした)・子供博覧会(幸せな家庭生活を演出しました)・文化行事(「流行研究会」という学者との交流を誇っていました)・美術展の開催(横山大観・黒田清輝・和田英作等大物揃いです)など、今日のデパート運営に繋がる革新的な経営政策を次々と打ち出していきました(初田亨「百貨店の誕生」ちくま学芸文庫)。
 有名な広告コピー「今日は帝劇、明日は三越」(浜田四郎作)も採用しました。これらが大量集客のための極めて強力な手法であることは今日では常識ですが、いずれも日比のリスクを取る挑戦から生み出されていったものです。新聞広告を取り次ぐ広告代理店も翁助の三越が利用するようになって始めて事業として成り立つようになったものと言えましょう(林)。

 日比は社員に対して「士魂」の表現として「接客には親切を尽くすことが何より大切である。口先ばかりの親切ではいけない。腹の底から出た命がけの精神でなくてはならない」と説いていました。日比は「身には前垂れを纏うとも心の内には兜をかぶっている心意気で商売道に精励せよ」と訓示し「店員の五禁」として以下の行為を厳禁しました。
    1 欠伸(あくび) これくらいお客様に対して無礼至極なものあらず。
    2 無愛想     これくらい不愉快を与えるものあらず。
    3 陰口      これくらい嫌な感情を起こさしむるものあらず。
    4 舌打ち     これくらい人をバカにしたるものあらず。
    5 懐手      これくらいお客様を逃がすものあらず。
 さらに日比はお客様をよく観察するよう社員に徹底します。
 「お客様といえば一列一体ただ買物にのみ来店する人々と思わば、そは三越の小僧として大なる不覚なり。大間違いなり。三越の盛大につられて、のんきに遊ぶ人々と見るも了見違い、むしろ自惚れの骨頂と謂うべし。何となれば、仮にお客様を区別して見れば
    1 買物の御客様
      これは単に買物を目的に来られる御客様なり。
    2 娯楽の御客様
      これは子供衆を同伴、一日を楽しみの御客様なり。
    3 怒れる御客様
      これは家庭にて何か怒ることありて、気散じの御客様なり。
    4 泣いている御客様
      これは家庭にて何か争いごとまたは煩悶ありたる御客様なり。
    5 困っている御客様
      これは家庭に事情あり憂晴しの御客様なり。
    6 贔屓の御客様
      これは何でもかでも三越に限るという御客様なり。
    7 不贔屓の御客様
      これは三越は高い贅沢なりといいながら見える御客様なり。
    8 見物の御客様
      これはわざわざ地方より上京観覧さるる御客様なり。話の種となるなり。
    9 病気の御客様
      これは神経の過敏なる御客、腫物の如き御客様なり。
   10  同業の御客様
      これは批評家たるべき御客様なり。大事なり。
 かくの如き多数の客気質あるを知らず、同一に一本調子の扱いする小僧は新米小僧にあらざれば横着小僧なり。逸早く御客様のこの種類に心付く小僧あらば、そはまさしく智恵小僧なり。」 (日比翁助「三越小僧読本」)

  
 三越のシンボルであるライオン像はロンドン・トラファルガー広場の像を模写したものです。日比が(息子に「雷音」と名前を付けるほどの)大のライオン好きだったので設置されました。三越が百貨店界の王者になって欲しいという願いも込められています。本店のライオン像は第2次大戦中の金属供出で軍に接収されますが、運良く溶解を免れ、戦後東郷神社に奉納されているのを社員が発見し、昭和21年に本店に戻ってきたものです。
 三越本店のHPには次の説明があります。
 待合わせの場所として親しまれながら本館正面玄関でお客様をお迎えする2頭の「ライオン像」。この像が誕生したのは大正3年(1914)のことです。この「ライオン像」の注文主は三越百貨店の基礎を築いたとされる当時の支配人、日比翁助。その日比が百貨店開設の準備のため欧米を視察したときにイギリスで注文したものです。ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔の下の4頭の獅子像がモデルとされ、英国の彫刻家メリフィールドが型どり、バルトンが鋳造したものです。完成まで3年の歳月を要したこの仕事はイギリスの彫刻界でも相当な話題となりました。現在ではその気品と店格を象徴して、三越の象徴的存在でもあり、また、東京名物の一つとしても親しまれています。

 日本の百貨店の基礎を築いた日比翁助は昭和6年にこの世を去りました(享年70歳)。
お墓は渋谷区広尾の祥雲寺にあります。直ぐ近くに久留米藩主有馬家のお墓があります。
 

 久留米藩士の息子として生まれた日比翁助は旧藩主の近くで永眠しているのです。

 
* 参考文献 篠原正一「久留米人物誌」(昭和56年)菊竹金文堂

* 林洋海「<三越>を作ったサムライ日比翁助」(現代書館)がとても詳細です。本稿を読み興味をもたれた方は是非ご一読ください。

* 三越は福岡市の天神にも店舗を有しています。ライオン像も置かれていますが、この像が久留米出身の人物に由来することの説明はありません。少し寂しく思います。