■2019年03月01日(Fri) ちょっと寄り道(上野歴史散歩)
 今回は上野を歩き回ってみました。湯島の修習生時代によく散歩しましたが、初めて認識することも多々存在します。以下は駅の周辺を散策し、公園を通って日暮里まで歩き、京成線で戻る地下旅をして、上野という特異な街の「高低差(落差)」を感じてみましょう。
(参考文献)本木淳「山手線の東京案内」批評社、岡崎柾男「山手線歴史散歩」鷹書房、浦井正明「上野公園へ行こう」岩波ジュニア新書、樫原辰郎「帝都公園物語」幻戯書房、「こんなに面白い東京国立博物館」新潮社、「天海と江戸仏教」朝日新聞社、小森雅人他「これでいいのか台東区」マイクロマガジン、藤木TDC「東京戦後地図・ヤミ市跡を歩く」実業之日本社)

 上野駅は明治16(1883)年7月、寛永寺子院が並んでいた崖線下の約2万9800坪を敷地として開設された。上野を出た機関車は約2時間半かけて熊谷駅に到着した。この頃は「日本鉄道」という私鉄であった。明治18年に煉瓦造りの駅舎が竣工した。大宮から宇都宮に至る区間が開通すると、上野駅は東京の北への玄関口として認識されるようになる。当初は旅客・貨物・車両基地の機能を併設していたが、鉄道輸送の需要が伸びてくると構内が手狭になったので、明治23年に設置された秋葉原貨物取扱所(後の秋葉原駅)に貨物取扱を移転。明治29年に開業した隅田川駅にも荒荷の扱いを分散し、上野は旅客専用駅となった。明治38年に常磐線(三河島日暮里間)が開通し、田端で折り返し運転していた常磐線列車が直接上野駅へ乗り入れるようになった。明治39年、日本鉄道の国有化に伴い上野も国有化された。この時代の上野駅は「終着駅」型であった。北からやってきた列車は上野で折り返し運転していた。かつて「寝台特急カシオペア」など上野駅が始発・終着となる列車が使用していた地平ホーム(13〜17番線)にその頃の上野駅の面影をみることが出来る。
 多くの東北出身の労働者たちにとって「上野は おいらの 心の駅だ〜」と認識されていたに違いない(詞:関口義明・歌:伊沢八郎)。この詞碑が上野駅構内に設置されている。
 大正8年に山手線は「『の』の字型運転」を開始した。中野から中央線経由で東京駅に行き、ここから東海道線で品川に向かい、渋谷・新宿・池袋を経由し、上野に至るものである。
 大正12年9月1日の関東大震災で上野駅初代駅舎は壊滅する。同月23日に仮駅舎で営業が再開した。これを契機として上野駅周辺の改良工事が始まり大正14年3月1日新橋との間の高架旅客線が開通した。かようにして現在に通じる山手線の「環状運転」が出来るようになったのである。環状運転の開始により上野駅は通過駅としての機能も持つようになった。山手線用のホームは上野公園の一部を削って新規に造られたものである。
 昭和7年4月2日に現在の2代目駅舎が落成し同月5日から営業開始された。この駅舎は利用者の便宜に配慮した動線設計がなされた。乗車客は1階車寄せから列車ホームに入り、降車客は地下1階車寄せから外に出る設計が為された。現在の上野駅でこの動線は維持されていないが、その思想は(出発と到着を階層で分離する)空港の設計に生かされている。
 上野駅はキヨスクの元祖でもある。鉄道弘済会は単なる雑貨販売業ではない。鉄道業務で負傷した人やその家族の生活を支援するための組織だった。当時、鉄道業は危険な職種であり、多くの負傷者や遺族が存在した。救済の必要性が高度だったのである。

 広小路口を出て道路を渡る。「広小路」は江戸時代に火除け(延焼防止)のために意識的に広く造られた道路である。上野の広小路は当時から大変な賑わいを見せた繁華街であった。江戸時代は社会的身分で居住空間が限定されていたし、公園と呼べるものも無かった。そのため大きい社寺の門前が庶民の集まる公共空間を形成していたのである。
 この辺りは修習生の頃歩き回った(2016年11月4日「本郷歴史散歩」参照)。前期の頃は余裕が無かったが、松戸寮に入った後期は「鈴本演芸場」へ何度か足を運んだ。寄席の面白さを堪能した。最後の湯島修習(46期)をさせてもらったことに感謝である。
 不忍池は大昔に江戸湾の延長線上だったと言われ、よみせ通り・へび道と続く藍染め川の下流とも言われる(2015年12月4日「都電歴史散歩」参照)。「不忍池」という名称は上野台地の古語「忍ヶ丘」の対句である(ちなみに本郷台地の古語は向ヶ丘という)。不忍池周辺は江戸時代から岡場所(非公認の性風俗地域)として著名であった。吉原に行けない貧乏人はここで「よたか」と出逢っていた。今も池之端から湯島にかけて風俗店が集積している。
 東上野3丁目周辺は「パチンコ村」と呼ばれている。パチンコ店ではなくパチンコメーカーの本社が多いからだという。北上野の国道沿いには「バイク街」がある。バイク人口減少により寂れたが、バイク人にとってこの界隈は今も魅力があるところとされる。
 御徒町までの高架下に連なるのが「アメ横」。ヤミ市の面影を残す貴重なエリアだ。池袋の巨大ヤミ市が廃止された後も(2018年3月2日「池袋歴史散歩」参照)生き残ったのは奇跡である。明治以降に鉄道駅が造られることで発展した池袋と異なり、江戸時代から寛永寺門前町として栄えた上野の歴史的な厚みが、この奇跡を生んだのだと言えるのであろう。
 デパート「松坂屋」の喫茶室でコーヒーをいただく。明治40(1907)年に、名古屋に本店を置く呉服商・松坂屋が百貨店への業態転換を開始したのが始まりである。日本のデパートの歴史は明治37(1904)年に三越呉服店の専務取締役・日比翁助が「デパートメントストア宣言」をしたことに始まるので(2007年1月17日「デパートの誕生」参照)松坂屋は早くから新しい時代に対応していたことになる。上野松坂屋で東京の土産を買い、上野駅から東北に向かう列車に乗って実家に帰省した人々は過去膨大な数になるであろう。

 道路を横切り上野の山へ向かう。気分を変えて高低差の大きい坂を登る。
 江戸時代、上野恩賜公園は全体が寛永寺の寺領であった(大正13年、宮内省を経て東京市に下賜されたので「恩賜」の名称がついている)。寛永寺は東の比叡山として山号を「東叡山」と称する。3代将軍家光の命により天海僧正によって寛永2(1625)年に建立された。元号を寺名とされたところに格式と延暦寺への対抗意識が表現される。当初は江戸城の鬼門(東北)を守る祈願所たる性格が強い所だったが、裏鬼門(南西)を守る芝増上寺とともに徳川将軍家の菩提寺となった。歴代将軍のうち6名(家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定)の墓がある。戊辰戦争で慶喜が謹慎した寛永寺は彰義隊が終結し反政府軍の拠点となった。慶応4年5月15日、大村益次郎が指揮する官軍は彰義隊を総攻撃して壊滅させた。寛永寺は焼失し一帯は焼け野原となっていた。その後、明治6年の太政官布達により、上野は芝・浅草・深川・飛鳥山と共に日本で初めての「公園」に指定されたのである。
 明治9年上野公園が開園すると翌年ここで内国勧業博覧会が開催された。主宰は内務省。「西南の役」の最中だったが入場者は46万人に登った。内務卿大久保利通にとり西郷隆盛と西南の役は「清算すべき過去」であり、上野公園と勧業博覧会は「これから向かうべき未来」なのであった(樫原60頁)。京都における近代化の象徴だった岡崎・吉田と符合するのが東京の上野・本郷なのである(2017年4月3日「鴨東歴史散歩」参照)。
 蛙の噴水左側の坂を登って公園内部に少し進んだところが「黒門跡地」。黒門は寛永寺の南側に設けられていた正門である。寛永2年に建立されている。黒門は寛永寺の門の中で最重要な入口だったので上野戦争で激戦地となった。明治6年、寺地の大半を公園にするにあたり黒門は東照宮大鳥居近くに移転され、明治40年、彰義隊を供養した仏磨和尚の縁で南千住円通寺に移築された。現在、黒門跡地に当時の面影はない。
 黒門跡地の右手にある階段を登ったところが「山王台」の跡だ。山王台は黒門口とともに激戦地になった。ここに西郷隆盛の銅像がある。征討軍参謀として幕臣・勝海舟との会談に臨み、江戸城の無血開城を実現したとされる。明治10年「西南の役」で「朝敵」とされた西郷は、明治22年、帝国憲法発布の大赦により正三位を追贈されている。明治天皇に対して西郷の賊名を除くように献言したのは勝海舟その人だと言われている。西郷銅像の後方30m程の木陰に「彰義隊士の墓」がある。上野戦争で戦死した彰義隊士の遺体は見せしめのため上野山内に放置されたが、南千住円通寺の仏磨などの尽力により当地で火葬された。生き残った彰義隊士は明治7年に政府の許可を得て彰義隊戦死の墓を建立したが、思う程に募金が集まらず墓は取り壊された。明治14年、隊士を火葬にしたこの場所に山岡鉄舟筆による「戦死之墓」が建てられている。この上野戦争には旧久留米藩士も参加した。総督・有馬蔵人以下353名が出兵した。3月28日京都を発し4月18日芝増上寺に縮陣している。5月15日上野戦争では本郷方面からの攻撃に参加し彰義隊の壊滅に貢献したとされる。

 彰義隊士の墓の30mほど斜め後方に「天海僧正の毛髪塔」がある。江戸時代初期(家康・秀忠・家光)における幕府の宗教政策に関するブレーンだった天海は、寛永20(1643)年に本覚院にて108歳で死去した。遺体は遺命により日光に葬られたが、この地(旧本覚院跡)に供養塔が建てられた。後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔が建てられ「毛髪塔」と呼ばれるようになったものである。天海の名を高めたのは、家康の死去に際し「明神」として祀ることを唱えるライバル金地院崇伝の主張を(大明神とされた豊臣が直ぐに滅びたことを根拠に)退け「東照大権現」の神号を考案し山王一実神道による供養を日光で行ったことによる。
 天海は「延暦寺に対抗できる天台宗関東本山を造営する」意思をもっていたが同時に「京都の文化を江戸に移植する」壮大なプランも描いていた。その手段が「見立て」である。上野の山を比叡山に見立て、不忍池を琵琶湖に見立てた。琵琶湖に浮かぶ竹生島にならい弁天島を作り清水寺を模して清水観音堂を建てた。これらは文化が皆無であった江戸に京都の文化的伝統を移植させるという天海の意思によるものである。江戸幕府はこの構想に反対であり、金銭的援助をしなかったので天海は私費で建立の資金を捻出した。こうして清水観音堂は寛永8(1631)年に建立された。当時、清水の舞台から不忍池が眺望できたという。
 観音堂下の階段を降りた先にあるのが不忍池の弁天堂。弁天堂は船で渡る島だったが、1672年に石橋が架けられ徒歩で渡ることができるようになった。この創建当時の弁天堂は戦災で消失した。現在の弁天堂は昭和33(1958)年に再建されたものである。

 上野精養軒の右手前にある石段を登った丘に「上野大仏」と「パゴダ」がある。大仏は寛永8年、越後村上藩主堀直寄が戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るため釈迦如来像を造立したのが始まりとされる。粘土を固めたものであったため正保4年の地震で倒壊した。万治の頃、木食僧浮雲師が庶民の浄財によって3m60cmを超える青銅製の釈迦如来像を造立。元禄11年には仏殿が建立された。ところが大正12年の関東大震災で佛頭が落ちたので寛永寺で保管された。佛体は解体されて第二次世界大戦に献納(金属供出)されたため、面部のみ寛永寺に残った。寛永寺は昭和47年、丘陵左手に壁面を設け大仏の顔をレリーフ状に奉安したものである。パゴダは上野観光連盟が大仏再建の願いを込めて建設したものであり、昭和46年に完成した。高さは15mで、内部中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は東照宮境内にあった薬師堂の本尊。明治初期の神仏分離により寛永寺に移管され、後にパゴダの本尊として迎えられたものである。
 上野東照宮は寛永4(1627)年に藤堂高虎が上野の屋敷内に創建した。3代将軍家光は高虎の建てた東照宮が気に入らず、社殿の全面造り替えを命じ、慶安4(1651)年に現在の東照宮が完成した。唐門・透塀・拝殿・幣殿・本殿からなり(日光東照宮と同様)本殿との間を石の間でつなぐ「権現造り」が用いられている。贅を尽くした見事な建物が上野戦争や第2次大戦で焼失しなかったのは奇跡である。参道には50基の銅燈籠が並んでいる。これらの銅燈籠は諸国の大名が東照大権現の霊前に奉納したものである。一見の価値がある。
 旧寛永寺五重塔は寛永16(1639)年に下総国佐倉城主の土井利勝が東照宮造営にあたり寄進したものだ。もとは東照宮の五重塔であった。塔は明治に寛永寺の所属となり、昭和33年寛永寺から東京都に寄付されたものである。現在は動物園敷地内に存在する。
 上野東照宮の参道を出て、左手に30mほど進んだところが「上野動物園」の入口。上野動物園の開園は明治15年(1882年)3月20日。日本最古であり年間入場者も日本一。現在の飼育動物は500種を超えており飼育動物の種類も日本一。敷地は東園と西園に分かれており、両園を結ぶモノレールは日本で最初に設置されたものである。
 「小松宮彰仁親王」は伏見宮邦家親王の第8王子。安政5(1858)年、京都仁和寺に入り純仁法親王と称し、慶応3年(1867年)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。鳥羽伏見の戦いで東征大将軍となり、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。明治15年に小松宮に改称。近衛師団長・参謀総長を歴任し陸軍元帥になる。銅像は明治45年2月に建てられ同3月18日に除幕式が挙行された。親王の銅像が建てられたのは、上野戦争で彰義隊の盟主としてかつがれた輪王寺宮(北白川宮能久親王)の兄であったことに因る。
 博物館に向かって左側の林に「ボードワン博士像」がある。オランダのボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで滞日。明治政府は、この地を陸軍用地、病院建設予定地として考えていたが、現地を見聞し景観の良さに感心したボードワン博士が近代的な公園にすべきと提言したことにより上野公園が誕生した。これを記念した像である。

 公園を東に向かって横切り上野駅側に進む。「正岡子規記念球場」がある。子規は明治の初め日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。子規は野球を俳句・短歌・随筆・小説に描きその普及に貢献した。彼が考案した「打者」「走者」「直球」の訳語は今でも使われている。開園130周年を記念し「正岡子規記念球場」の愛称が付けられ、球場の傍に句碑が建立された。
                春風や まりを投げたき 草の原
 野球の普及への功績から、子規は平成14年に野球殿堂入りを果たしている。
 球場先にあるのが「国立西洋美術館」。19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻を中心とする松方コレクションを基として1959年に設立。松方幸次郎は20世紀初めにフランスで多くの美術品を収集していたが、第2次世界大戦後、フランス政府により敵国資産として差し押さえられた。コレクションが返還される際の条件として「国立の西洋美術館が建設されること」が付せられたので建設された。設計はル・コルビュジエ。2017年、「世界遺産」に登録された。
 西洋美術館横にあるのが「東京文化会館」。1961年に開館し1999年に改装され現在に至る。大ホール小ホールの他、リハーサル室・会議室・レストラン・資料室を擁する。クラシック音楽の殿堂・オペラの聖地として名高い。著名歌劇場が来日するときは「必ず」と言っていいほど東京文化会館で公演を行うという。設計はル・コルビジェの弟子である前川國男。師匠が設計した国立西洋美術館との「調和性・一体性」を重視している。
 「国立科学博物館」は明治20(1887)年に教育博物館として創立。現在地に移転してきたのは昭和5(1930)年。上から見ると飛行機の形をしている。平成16年に新館がオープンした。あわせて本館の改修を進めて平成19年に改修工事を完了している。
 「東京都美術館」は北九州の石炭商・佐藤慶太郎が寄付した100万円(今の32億円相当)を財源に建設されたもの。石炭商として決して大手ではない佐藤はアメリカの実業家カーネギーに倣い全財産の半分を社会のために使った。これを資金として、大正15年5月1日、東京府美術館が開館した。官展から在野を問わず、芸術家の発表の場となった。神殿を思わせる列柱と仰ぎ見る大階段は「美術の殿堂」と称された。現在は改築されている。

 寛永寺本坊の東に、正保元(1644)年、天海像を安置する影堂(慈眼堂)が創建された。この堂は後に慈恵大師が合祀されたことから「両大師・開山堂」と呼ばれるようになる。隣接して寛永寺輪王殿がある。寛永寺本坊には東叡山の山主である輪王子宮法親王が居住していたが、上野戦争で本坊は焼失し表門のみ戦火を免れた。明治11年帝国博物館が開館すると、表門は博物館正門として使われた。関東大震災後,博物館改築に伴い、両大師開山堂に隣接する現在地に移建され、現在は寛永寺輪王殿の門となっている。
 「東京国立博物館」へ。明治5(1872)年に創設された日本最古の博物館である。日本と東洋の文化財の収集保管・展示公開・調査・研究・普及などを目的として運営されている。当初湯島聖堂にあったが明治15年に上野公園に移り現在に至る。本館のある場所は旧寛永寺本坊があったところである。本館・表慶館・東洋館・平成館・法隆寺宝物館の展示館と資料館その他の施設からなる。収蔵品の総数は11万件を超える(国宝87件・重要文化財622件が含まれる)。本館は昭和12年に竣工し昭和13年11月10日に開館した。設計は渡辺仁。「日本趣味を基調とする東洋式」と称する帝冠様式の代表的建築である。ホール正面の時計・ステンドグラス・照明・扉・階段の手すり・窓の意匠・休憩室のモザイクタイルなど細かいところに注意が払われている。大日本帝国の威信をかけ造られた建物であることが判る。表慶館は明治33(1900)年、皇太子(後の大正天皇)成婚を記念して計画され、明治42(1909)年に開館した。設計はコンドルの弟子で東宮御所(現迎賓館)も手がけた宮廷建築家の片山東熊である。中央と左右に美しいドーム屋根をいただき、上層部の外壁面には製図用具、工具、楽器などをモチーフしたレリーフがある。シンメトリックに設計された階段は際だった美しさを見せる。2階の吹き抜けも見事。東洋館は昭和43年に開館し中国・朝鮮半島・東南アジア・インド・エジプトなどの美術品を展示する。平成館は平成11年に開館。2階は特別展のための専用展示室。多様な企画展示に対応できる広さと設備を備えている。私は2018年8月に平成館で開催された「縄文展」を拝見した。素晴らしいものであった!
 東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)の施設だった「奏楽堂」は、明治23年に創建された日本最古の木造の様式ホールである。昭和62年に台東区によって現在地に移築保存され一般に公開されるようになった。昭和63年1月に重要文化財に指定されている。2階にある音楽ホールは滝廉太郎がピアノを弾き・山田耕筰が歌曲を歌い・三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある素晴らしい舞台である。
 東京藝術大学は「芸術界の東大」と表現されている。私は秋の芸大祭のときにここを訪れたことがある。藝大は「最後の秘境」と言われる。変わり者の天国のようだ(興味がある方は二宮敦人「最後の秘境・東京藝大・天才達のカオスな日常」新潮社を参照されたい)。

 交差点に不思議な建物がある。「博物館動物園駅」だ。昭和8年の京成本線の開通にあわせ、東京国立博物館・東京藝術大学などの最寄り駅として開業した。老朽化や乗降客数の減少により平成9年に営業停止、平成16年に廃止された。地下施設であるホームと改札は休止前の状態を保っており、京成線の列車で通過する際に僅かに拝見することができる。
 交差する西北の道路下に京成線が走る。このラインに沿って歩くと現在の「寛永寺」に着く。根本中堂(本堂)は、明治12年、子院・大慈院のあった敷地に川越喜多院の本地堂を移築したもの。内陣の厨子内に秘仏である本尊薬師三尊像が安置されている。本堂の裏手に書院がある。慶喜が水戸への退去前2か月ほど蟄居した部屋が保存されている(非公開)。
 根本本堂の右手奥に五代将軍綱吉霊廟勅額門がある。宝永6(1709)年に竣工した綱吉の霊廟は歴代将軍の霊廟の中で最も際だっている。一部は維新後に解体され、第二次世界大戦にて焼失した。この勅額門はこれらの災難を免れた貴重な遺構である。
 徳川将軍の墓地は根本中堂裏手の崖線に沿って形成されている。此処を抜けると広大な谷中の墓地だ。渋沢栄一・横山大観など著名人の墓が並ぶ。徳川慶喜の墓はこの中に設けられている。慶喜が徳川家墓地への埋葬を拒んだのは徳川宗家を継承しながらも新時代に対応できなかったふがいなさを先祖に詫びる挟持の現れであろうか。
 谷中の4・5・6・7丁目は墓地と寺院ばかり。江戸時代は寺が付属墓地に檀家の埋葬をしていた。神仏分離を進める明治新政府は神道墓地として東京市営墓地を開設したが、神道が火葬を禁止したために一般市民に受け入れらなかった。明治7年、東京市は青山・雑司ヶ谷・染井・亀戸・谷中に公共墓地を設けた。さくら通りの脇に五重塔の礎石跡がある。幸田露伴の小説で有名なこの塔は、関東大震災で倒れず東京大空襲でも焼けなかったのだが、昭和32年に心中による放火によって焼失したものである。
 日暮里駅から京成線に乗る。地上から地下に潜る。「博物館動物園駅」ホームを意識しながら脇を列車で通過する。数分で京成上野駅の地下ホームに着いた。

 私は渋谷を「猥雑さと高級感を併せ持っているところが面白い街」と記述した(2013年10月15日「渋谷歴史散歩」参照)。しかし明治以降に鉄道で発展した渋谷と江戸時代から門前町として栄えてきた上野は猥雑さと高級感の幅(落差)が全く違う。上野の「猥雑さ」は低地に拡がっており背後に浅草・吉原・山谷を控えるディープなものである。東北からの玄関口として労働者が集まった上野は数的意味で迫力が違う。他方、上野の「高級感」は高台に拡がっており国家の威信をかけて構築された学問・音楽・美術の殿堂を有することに起因する重厚なものである。学問や芸術を愛する富裕層やインテリが全国から集まった上野は質的意味でも厚みが違う。この庶民とハイソは通常は混じり合うことがないが、1年に1度、ごった煮状態で混じり合う。それは「らくさ」が混じり合ってカオスになる「さくら」の時期なのだ。