■2018年09月03日(Mon) ちょっと寄り道(立川歴史散歩)
 多摩歴史散歩の3回目は立川を歩き回ってみました。学生の頃は馴染みがなかったのですが、歴史的にも政治的にも重要な都市です。以下、1日目は立川駅周辺を軽く歩き、2日目は福生(横田基地)・砂川・立川基地跡を広域的に散歩することにしましょう。
  (参考文献) 鈴木ユータ・岡島慎二「これでいいのか立川市」マイクロマガジン、「立川を歩く」(立川市教育委員会)、鈴木芳行「首都防空網と<空都>多摩」吉川弘文館、筒井作蔵「五日市街道を歩く」街と暮らし社、星紀市編「砂川闘争50年・それぞれの思い」けやき出版、皆川典久他「東京『スリバチ』地形散歩・多摩武蔵野編」洋泉社、難波功士「米軍基地文化」新曜社、五味洋治「朝鮮戦争はなぜ終わらないのか」創元社)

 国立に住んでいた学生時代、私は立川に来ることが無かった。直ぐ近くにあるのに立川は遠い街だった。当時の一橋大生の意識は東(新宿方向)に向いており西(立川方向)に向かうことは普通なかった。大学生にとっての立川は「あまり好ましくない街」という印象を拭いきれないところだった。私が意識的に立川を廻るのは実は今回が初めてである。
 国立駅を出た中央線快速列車は数分で立川駅の巨大なターミナルビルの下に入っていく。立川駅は多摩地区の交通の要衝だ。まずは立川駅の歴史から始めることにしよう。
 立川駅は甲武鉄道の開通時(1889)に開設された。砂川村と柴崎村の中間地点に駅は設けられた。発展していたのは諏訪神社を擁する柴崎村(南)側であったが、鉄道開設にあたり柴崎村は近くに鉄道が敷設されることに反対した。そのため甲武鉄道は広い敷地を得られた現敷地を買収したのだ。当初、出口は北にしか作られなかった。甲武鉄道が南の柴崎村側に出口をつくろうとしたところ、柴崎村が蒸気機関車に必要な水の供給を拒否したからである。これに対し砂川村(北)は水の供給を許諾した。この時の対応差によって柴崎村は長年「駅の裏口」というレッテルを貼られることになったのだ。立川に南口が作られるのは駅開設から40年以上経った昭和5(1930)年。「南北格差」が議論されることが多い立川であるが、それは駅が開設された明治時代における柴崎と砂川の対応力の差に起因するのである。
 南口を出て右(西)に約10分歩くと諏訪神社がある。弘仁2年(811)に信州の諏訪大社を勧請して柴崎村の中心に創建されたものである。毎年8月最終の週に行われる立川夏祭りはこの諏訪神社の祭りを起源としている。柴崎の鎮守として信仰を集めた。明治41年に八幡神社を合祀し明治43年に浅間神社を合祀している。諏訪社は市内最古の木造建造物だったが平成6年に火災により焼失。現在の社殿は平成12年に再建されたものである。
 諏訪神社を出て駅方向に戻る。多摩モノレールの下をくぐって、立川南通を東(国立方向)に向かって歩く。この一帯は「錦町」という。駅に近い方が1丁目。昔この辺りは米兵相手の歓楽街であった。立川駅の南側は西と東で全く性格が異なっていた。おおざっぱに言えば、西は諏訪神社を中心とする旧柴崎村の中心であるのに対し、東は新興の歓楽街であったのだ。
 戦後に米軍基地が設けられた立川には、兵士を見込んだ色街が2カ所(錦町と羽衣町)設けられた。須崎の業者が入り、進駐軍向け慰安所(RAA)を経て、カフェー街になったものである(2018年7月2日「国立歴史散歩」参照)。米軍基地に対する「立川」の対応には南北で著しい温度差がある。柴崎と砂川は決して一枚板ではないのである。
 真っ直ぐ歩いて行くと左に立川市民会館(通称・たましんホール)がある。私は大学2年生のとき小林研一郎指揮・東京交響楽団演奏でベートーヴェン「第九」を歌う舞台に立った。偶然加わった第九合唱団だったが、田舎者の私が本格的な文化活動に触れた最初の機会だったので感銘も大きかった。立川の舞台に立っていなかったら今の私はない、とすら思う。
 駅方面に戻る。歓楽街に立川南口ギャンブルの拠点「ウインズ」(JRA)がある。北口にある競輪とともに「ギャンブル街・立川」を象徴している施設だ。一昔前、この辺りは学生が近寄り難いディープな街であったと聞く。現在は何故か街全体が小綺麗になっており昔の暗さを全く感じさせない。街歩きを趣味とする者としては少し拍子抜けしてしまう。
 駅に戻りコンコースを通って北口に出る。広いペデストアリアンデッキが連なる。北口には巨大な店舗が立ち並んでいる。買い物だけならデッキを歩けば用が足りるのだが、デッキを歩いているだけでは生きた立川の街の様子は判らない。デッキを降りて地上に出よう!
 北口駅前広場は7200平方メートルの広さを持ち、そこから北に進む駅前通は中央に緑地帯がある左右二車線の広い通りである。ここは昭和19年に建物疎開が実施されたところである。「建物疎開」とは昭和18年から昭和20年に掛けて全国的に大規模に実施された延焼を防ぐ事業だ。東京「府」が東京「都」になったのは昭和18年7月1日であるが、その目的は戦争遂行であり(告諭第1号に明記)その政策の柱の1つが建物疎開であった。戦後、多くの都市で広い道路が形成されたが、その原因の1つは戦時中の建物疎開である。
 高島屋の手前の通りを緑川通りという。立川は西北が高く東南が低い傾斜地であり、飛行場に降った水が駅方面に向けて集中するので直ぐ洪水になった。これを解消するため大戦末期に立川飛行場排水路として建設されたのが緑川。曙町から南下し羽衣町を通って青柳を経由し多摩川に流入する約4キロメートルの人工河川である。現在は暗渠となっている。
 東に向かって歩く。左(北)に曲がると立川競輪場。京王閣・西武園と並ぶ競輪場のメッカである。「競輪グランプリ」が実施される競輪場としても全国的に著名である。競輪場があるということは立川が「戦災都市」だったことを意味する(2017年10月2日「久留米競輪1」参照)。そのとおり立川は昭和20(1945)年2月16日から8月2日までの間少なくとも13回、米軍の空爆対象となっている。アメリカ軍は空都である立川に狙いを付けて執拗に空爆した。それは戦後の米軍による軍事的利用を明確に意図したものであった。
 競輪を終えた客が駅に帰るルートは2つある(鈴木岡島118頁)。勝者は正門から広い道を西に向かい立川通りに出る。ここに飲み屋と風俗ビルが建ち並んでおり、アブク銭が消える。敗者は南に伸びる細く暗い路地(通称・オケラ街道)を歩くのだという。
 第二小学校の横に出ると東西に延びる細いシネマ通りだ。最初に映画館が出来たので名付けられた。戦後は米兵相手の歓楽街となった。松本清張「ゼロの焦点」の舞台でもある。
 緑川通りに戻り西に向かって歩くと高島屋・伊勢丹・パレスホテルが並ぶ現在の中心繁華街。モノレールの下をくぐると昭和記念公園の入口。昭和天皇在位50年を記念し、米軍から返還された立川基地跡の一角に作られたものだ(旧・陸軍航空技術研究所)。広大な緑の公園には多くの家族連れが訪れている。基地返還により生まれた広い空間の存在意義は今後更に高まることであろう。歩いて駅に戻り中央線で国分寺に帰る。1日目はこれで終了。

 2日目は福生駅から立川駅までかなり広域的に廻ることにする。
 国分寺を発ち立川で中央線から青梅線に乗り換えて福生駅で降りる。此処に降り立つのは初めて。学生の頃から横田基地に興味はあったが、実際に行く気にはならなかった。学生時代以来の宿題を今こそ果たす。村上龍の「かぎりなく透明に近いブルー」を思い起こす。
 駅前の道を北進し右に曲がると飲み屋街がある。かつては米兵相手に大いに繁盛したであろう繁華街もアルファベットが減って何処にでもある飲み屋街に変貌しつつあるように感じられる。それが「悪いこと」だとは全く思わないが、街歩きを趣味とする人間として若干のつまらなさを感じるのはワガママであろうか?飲み屋街を抜け左折すると飛行場に向かう上り坂になる。この上り坂は古代多摩川が形成した崖線である。坂を登ると横田基地の第2ゲートだ。前を通るのは国道16号線。この辺りではアメリカ風に「ルート16」と呼ばれている。
 横田基地は崖線上の平坦地に形成されている。滑走路の総延長は約3350メートル。飛行場は「高燥な平坦地」が望ましい。立川の西北方向に広がる高燥な崖線上は飛行場を建設するのに最適である。が、本来、横田は立川飛行場の付属施設に過ぎなかった。
 戦後、米軍は立川飛行場を接収し既存滑走路東に南北約2000メートルの新滑走路を建設し朝鮮戦争時に多く使用した。が、立川滑走路の実効延長は1500メートル強に過ぎず、1950年代後半に就航が計画された大型ジェット輸送機の離着陸が困難だった。そこで「日米合同委員会」において米軍は立川飛行場の拡張を日本政府に要求した。大型機への対応には北への滑走路拡張が不可欠であった(南は鉄道があるので無理)。この計画に対して砂川の地権者や学生活動家らが猛反対。こうして1957年に「砂川事件」が勃発する。
 砂川事件の余波で拡張計画実施が停滞したため米軍は横田飛行場(旧・立川飛行場付属多摩飛行場)滑走路を1300メートルから一挙に3350メートルに延伸し、立川の軍事機能を順次移転した。立川のツケを福生が取らされた格好である。
 現代の地図をながめると、基地の周囲に周りの街並みとは明らかに異質の(点々で記されたような)広大な住宅地が目に映る。何処かで見た記憶が?「ワシントンハイツ」だ。明治神宮南に存在した米軍高級将校の住居(2013年10月15日「渋谷歴史散歩」参照)。ワシントンハイツと同じ街並みが横田基地周辺(福生・武蔵村山・立川)に未だ残っているのだ。
 横田基地周辺は「米軍基地文化」のメッカであった。FENからジャズが流れ米兵が「アメリカ流の自由」を満喫していた。その名残が強烈な「ルート16」を歩いて南下する。
 福岡発の飛行機は伊豆半島辺りで南下し、房総半島を迂回して東京湾を渡り東から羽田空港に降りる。かような不可解な飛び方をするのは東京上空に「横田空域」が設定されているからだ。日本は今も首都の空の自由な飛行が出来ない。未だ終結していない「朝鮮戦争」の存在をタテに国連軍司令部が今なお横田基地内に残存している。アメリカが朝鮮戦争終結宣言に対し冷淡であるのは東西冷戦構造の残存が「軍事的な植民地支配」の維持に都合が良いからである。他方で東西冷戦構造は日本政府にとっても都合が良かった。「敗戦国の責任」を資本主義対社会主義という「イデオロギーの対決」にすり替えることが出来たからである。
 イタリアンレストラン「ニコラ」で昼食をとりさらに南下する。
 砂川から西に向かってくる五日市街道は横田基地の滑走路で寸断されている。この街道は慶長元(1596)年に家康が街道を整備するよう指示したことに遡る由緒ある道である。しかし横田滑走路を延長する際、米軍はかかる歴史ある五日市街道を無視して基地内に編入する暴挙に出た。その結果、五日市街道は南側を大幅に迂回するルートになったのである。
 横田基地を過ぎた辺りで左側から接するのが現在の五日市街道。16号線を直進すると複数の線路(八高線・青梅線・五日市線)を越える。ガードを降りて左に曲がると拝島駅だ。
 拝島駅から西武拝島線に乗って2つめの武蔵砂川で降りる。直ぐ南に玉川上水が流れている。見影橋公園から南下すると五日市街道の砂川三番交差点である。豪農の家が目立つ 。
 この辺りの豪農は慶長年間から岸村(現武蔵村山市岸)の村野三右衛門が砂川新田の開墾を始め寛永年間に入り居住を始めたことに由来する。家康が入国した慶長8(1603)年から多摩は天領(直轄地)に組み入れられた。玉川上水が開削された承応3(1654)年以降、多くの新田開発がなされた。本来、玉川上水は羽村から四谷大木戸までの約43キロメートルに開削された上水道(飲料用)である。落差は約100メートル。水位を落とさず四谷まで開削できたことが広く江戸の町に上水を供給することを可能にした(2016年4月8日「新宿歴史散歩」を参照)。玉川上水は豊富な水量を誇っていた。なにせ多摩川という大河川本流から直接に取水しているのだ。その一部を農業用水として活用出来たことが新田開発を可能にした。元文2(1737)年に柴崎分水が開通する。幕府権威下の土木工事により豪農となった者たちには「親徳川」の気分が濃厚であった。幕末において多摩地域から新撰組の主要メンバーが集まっている背景にはかかる史実が存在するのである。
 阿豆佐味天(あずさみてん)神社を見学する。寛永6(1629)年の創建である。この地は砂川闘争の際に農民達が集合する拠点になった所。農民が「イデオロギー」ではなく「先祖から受け継がれた農地を守りたい」との純朴な気持ちで闘争に参加していたことを象徴する。深読みすれば「親徳川」の気分が強い砂川の農民には「反・薩長政権」の根っこがあるのかもしれない(自由民権運動が五日市を中心に盛んになったのも同じ根っこ・五日市憲法など)。
 近くの「砂川学習館」で展示物を拝見。砂川事件が多数の史料と写真で紹介されている。
 砂川事件は立川飛行場拡張を巡る闘争に関する刑事訴訟である。昭和32(1957)年7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際「基地拡張に反対するデモ隊の一部がアメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し基地内に数メートル立ち入った」として、デモ隊のうち7名が「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定」(現在の「地位協定」の前身)違反で起訴された。最高裁大法廷(裁判長・田中耕太郎)は昭和34年12月16日、異例の早さで「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから外国の軍隊は戦力にあたらない。したがってアメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない」「日米安全保障条約のように高度の政治性をもつ条約は一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限りその内容について違憲かどうかの判断を下すことはできない」として一審無罪判決を破棄し差戻した。この判決に関しては(機密指定を解除されたアメリカの公文書を日本側の研究者やジャーナリストが分析したことによって)新たな事実が次々に判明している。東京地裁の「米軍駐留は憲法違反」との判決を受け、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世は判決破棄を狙い外務大臣藤山愛一郎に対し最高裁への跳躍上告を促す圧力をかけていた。跳躍上告を促したのは通常控訴手続では刑事訴訟が長引き、昭和35(1960)年に予定された安保条約改定に反対する社会党など「非武装中立を唱える左翼勢力を益する」との理由からだ。昭和34年中に米軍合憲との判決を出させるように要求したのだ。最高裁長官である田中耕太郎が自らマッカーサー駐日大使と面会し「伊達判決は誤り」として「一審判決を破棄・差し戻しする」と言明していたという。
 砂川事件が「立川事件」と呼ばれないのは旧柴崎村が滑走路延長に反対したわけではなく反対したのは専ら買収対象となる旧砂川村の農民たちだったからだ。柴崎は米兵を相手に歓楽街として繁盛している商人の街だった。これに対し砂川は江戸時代以降に代々農地を守り続けてきた農民の村だった。土地を奪われることへの拒否感は凄いものであった。
 砂川学習館の周りには空き地が多い。多くが国有地である。国策として進められた立川飛行場拡張を巡る買収対象とされた土地である。砂川闘争の結果、飛行場の拡張は為されなかったのでそのままの状態で放置されているのである。砂川闘争の負の遺産とも言える。
 南に拡がるのが立川飛行場(現・陸上自衛隊立川駐屯地)。大正11(1922)年、陸軍航空部隊の中核として開設された。昭和4(1929)年に立川と大阪を結ぶ初の定期航空路が開設された。昭和6(1931)年に東京飛行場(羽田)が開港し、これにより1933年に民間機が東京飛行場に移転したので陸軍専用となったものである(同時代の北部九州における航空の拠点であった太刀洗飛行場に関する2010年10月14日「太刀洗飛行場1」を参照)。
 立川飛行場は陸軍航空部隊の研究製造拠点でもあった。隣接地に陸軍航空工廠や陸軍航空技術研究所があり新型機の開発実験もしていた。周辺に立川飛行機・日立航空機・昭和飛行機工業など民間企業と下請工場が多数建てられていた。
 戦後、立川飛行場は米軍により接収された。首都真近に「空の帝国」アメリカ軍の大規模な基地が君臨したのである。砂川事件の副産物として立川飛行場は返還されたが、アメリカはその代償として「立川よりも大規模な横田基地」を実現した。主要機能の横田移転とともに立川は段階的に返還が実施され、1977年に全敷地が返還された。東側は所有者である立飛企業株式会社・新立川航空機株式会社に返還され、その余は商業施設・都立砂川高校・市立中学校・体育館など公的施設になった。他地区は3つに分割され、陸上自衛隊立川駐屯地・海上保安庁・警視庁東京消防庁・災害医療センター等の官公庁施設が設けられた(これらは「立川広域防災基地」と総称されている・ゴジラとの対決拠点にもなった)。
 泉町を南北に貫通する中央南北線の通りを南下し立川市役所の先を左折する。目前には国文学研究史料館・極地研究所・国語研究所という国立の文化施設が並んでいる。その隣にあるのが東京地裁立川支部だ。平成21年に東京地裁の支部は八王子から立川に移転されたのである(八王子には簡易裁判所が残されている)。
 多摩都市モノレール「高松」駅からモノレールに乗り短い空中の旅を楽しむ。窓外に美しい風景が広がる。左側に旧立川飛行機時代から存在する給水塔がある。貴重な遺構だ。
 立川北駅でモノレールを降りる。あたりは近未来の雰囲気を漂わせるビル街だ。ペデストリアンデッキを歩きながら立川の「過去と現在と未来」を想起する。昭和記念公園の周囲には広大な緑の空間が広がっている。もしも砂川の民が戦わずスムーズに立川基地滑走路の北への延長が為されていたら、現在の立川の豊かな環境は存在しなかった。昭和記念公園・立川防災基地を含む広大な国有地の形成に当たり、砂川闘争は不可欠の要因であった。
 明治以降立川には「鉄道と航空の要衝」という位置づけが与えられた。それは立川の過去の「使命であり宿命」でもあった。その延長線上で、立川には未来の災害時における「日本の臨時首都」たる意味付けさえも与えられている。それが立川の「運命」なのであろう。そんなことをあれこれ考えながら私は中央線快速電車に乗り立川を後にした。

* 若い頃の思い出が詰まった「国分寺と国立」および歴史的・政治的に重要な街「立川」を巡る多摩の歴史散歩(全3回)はこれで終わりです。