■2017年12月01日(Fri) 今村カトリック教会
(* この論考は2009年2月10日に上程していたものです。「今村信徒発見150年」行事を記念に作成された新パンフレットや配布されている絵葉書をもとにリニューアルいたしました。内部写真はパンフレット・絵葉書からの引用です。内部を独自に写真撮影することは禁止されています。なお御訪問の際は建物の維持管理のために献金をお願いいたします。)

 筑後平野の中央大刀洗町今に煉瓦造りの教会があります。今村カトリック教会と言います。今村は270年もの禁教時代を隠れキリシタンとして生き抜き、解禁後は速やかにカトリックに復帰した「奇跡の村」です。以下、同教会で配布されているパンフレット・佐藤早苗「奇跡の村」河出書房新社・井手道雄「西海の天主堂路」新風舎などを基礎にしてご紹介します。

 今村は久留米市の東北(車で約20分程)に位置し、約80件の民家があります。
 この小さな村に「フランスのシャルトル大聖堂と似ている」(井手358頁)と評される素晴らしい教会堂が存在します。ここを初めて訪れる方の多くが、あまりの立派さに息を飲みます。そして「何故、これほど素晴らしい建物がこの場所にあるのか?」と疑問に思うのです。

 慶長5(1600)年頃、筑後地域のキリシタンは約7000人にも達していました。この地域に多数のキリスト教信者が生まれた背景には大きく3つの理由があります。
 1つは豊後のキリシタン大名・大友宗麟がしばしば筑後に布陣し、宣教師が筑後地方に宣教したことです(ルイス・フロイスの「日本史」には1564年頃アルメイダという宣教師が布教の旅をしたとの記述があるそうです)。2つ目は当時久留米を支配した大名・毛利秀包が熱心なキリシタンであったことです(2017年8月2日「市役所付近の今昔」参照)。3つ目は関ヶ原合戦以後、家康から筑後全域を与えられた柳川城主・田中吉政がキリシタンに好意的であったことです(2014年9月10月「田中吉政の遺産1・2」参照)。
 筑後のキリスト教信者は、幕府によるキリシタン禁制の強化と後の久留米藩主有馬豊氏の取締まりにより激減しました。が、今村の信者は隠れキリシタンとして270年近く信仰を守り続け、明治になり禁制が解かれた後ほぼ全員が速やかにカトリック教会に復帰しました。かかる例は長崎の浦上・神の島・五島以外にはありません。もちろん今村にも寺請制度は適用されました。死者が出れば仏式で葬式をあげました。しかし、村民は検死をすませた後、皆で墓地に行き、紙で十字架を作り、あらためてカトリックによる埋葬を行っていたそうです。

 今村が「奇跡の村」と言われるのは、隠れキリシタンが存続した外海・五島・生月島・天草といった周辺や離島ではなく、日本でも有数の穀倉地帯たる筑後平野の真ん中に位置しながら、かくも強い信仰を長期間にわたり守り続けてきたことに由来します。 
 長崎(浦上)で信徒が発見された2年後である慶応3(1867)年、浦上の紺屋が藍の仕入れのため久留米方面に来た際、偶然に「今村にはキリシタンらしき者がいるらしい」との噂を聞き大浦天主堂のローケーニュ神父にこれを伝えました。すぐさま神父から確認のための使者が派遣され、両者の交流が始まりました。禁制時代に奉行への密告が横行した経験もあり、交流当初は互いに疑心暗鬼でしたが、食べ物の好みや禁忌についての風変わりな問答から互いにキリシタンであることの確認がなされたそうです(井手365頁以下)。

 明治14(1881)年、今村に小さい天主堂が建てられます。が、その後信者が増えて手狭になったため、明治29(1896)年に着任した本田保神父の手により新聖堂の建築計画が立てられました。しかし、貧しい今村の信者にはお金がありません。建築資金はほとんどゼロだったのです。そこで本田神父は幼少の頃に浦上キリシタンとして受けた弾圧やその後の宣教の苦難をラテン語で記した文章をドイツの雑誌「カトリック・ミッション」に投稿しました。これに感激したドイツ市民から多額の浄財が寄せられ、建築資金の目処が立ったのです。
  

 明治45(1912)年、鉄川与助の設計施工による天主堂の建築が始まりました。建設地が軟弱な地盤であったため、敷地一杯に22尺の松杭を敷き詰め、長崎から石灰を・筑後川から川砂を運び、地盤を強化しました。このため予想外の追加費用を要し、ドイツから更なる浄財を得て工事を続行することが出来たそうです。石材は浮羽町の山北から、彫刻用の石は長崎西目から、杉材は高良山から運びました。瓦は城島のものを使い、赤煉瓦は大川向島の煉瓦工場に特注しました。ステンドグラスはフランスから取り寄せました。これらの優れた材料と信徒たちの多大の労働奉仕により、大正2(1913)年に天主堂は完成しました。
 
 教会堂は正面に八角形の2つの塔(高さ22・5メートル)を配置したロマネスク様式で、アプローチから見た眺めはとても日本の片田舎の光景とは思えません。

 
 内部は三廊式で、主廊部の壁面は三層をなしています。天井は円形アーチを基調とした板張りリブ・ヴォールト式(いわゆるコウモリ天井)です。中央祭壇に大天使ミカエル像が置かれ南北の壁面に14枚の十字架の道行の油絵が掛けられています。祭壇は、江戸時代初期に殉教し地元信徒の崇敬を集めた、ジョアン又右衛門の墓の上に設けられているそうです。

 
 フランスから取り寄せられたステンドグラスは見事なものです。

 内部装飾の隅々にまで細心の注意が払われています。
 
 教会の裏(西)側には社会福祉法人聖母園が運営する幼稚園や老人ホームが形成されています。全てカトリックの精神に基づいて運営されています。
  

 筑後平野の真ん中に270年近くも信仰を守り続けた村があったこと、この地に名工・鉄川与助による大聖堂が建てられたこと。これは「奇跡」です。多くの方がこの奇跡の教会を訪れ、その素晴らしさを味わっていただくことを私は願っています。

* キリシタン布教と弾圧史については遠藤周作「切支丹の里」(中公文庫)が優れています
 ので御一読ください(「ちょっと寄り道(長崎歴史散歩)」(2017年1月10日)。

* 2017年は今村で信徒が発見されて150年の記念の年になります。そのために正面に
 アーチがかけられ「祝今村信徒発見150周年」の文字が掲げられています。


* ジョアン又右衛門殉教記念碑の碑文です。(1987年12月建立)
 ジョアン又右衛門は幼名又五郎、後に五島の宇久島に渡り受洗、ジョアンの洗礼名を受け後藤寿庵と名のる。奥州を再度訪れ、その地で伊達政宗の厚遇を受けたが1620(元和6)年、徳川幕府のキリシタン禁教弾圧のため政宗により追放された。キリストの教えに徹し苛酷な迫害の最中にも九州、特に今村本郷を中心にひそかに信者村人たちを教え導き筑後地方に大きな感化を与えた。幕府は地元の大庄屋を通じて彼を捕え厳しく棄教を迫ったが、信仰を固守し断じて応じず、ついに人々の見せしめとして此の場所で磔刑に処せられたと代々言い伝えられてきた。ここは「ハタモン場」といわれ信仰の灯を伝えてきた殉教地である。今般ここに殉教者ジョアン又右衛門の信仰を讃え後世に伝えるために記念碑を設立する。

* 小郡市出身の作家(医師)箒木逢生先生が小説「守教」(新潮社)を発刊されました。コンセプトは「今村は自村だけでキリスト教信仰を守りぬけたわけではない」ということ。周囲のセミナリヨやコレジオ(神学校)レジデンシア(住院)との繋がりによって今村の信仰は保たれた。アルメイダ(イエズス会宣教師・医師)や天正遣欧使節などの聖職者が行き交う「光の村」という面が今村にあったからこそ信仰を守りぬくことが出来たのだとされています。
* 2017年10月14日、私は大刀洗町で行われた先生の講演会に参加して大いに感銘を受けました。地元でこういう機会を持てるのは有り難いことです。感謝します。