■2018年04月02日(Mon) マリアの聖堂
(*本稿は09年1月13日にアップしたものですが、従前の写真が今一だったので写真を撮り直し現地地図も添えてリニューアルしました。説明も若干修正しました。)

 聖マリア病院は筑後地区を代表する大病院です(聖マリア病院HP)。本院の前身は久留米カトリック教会内にもうけられた「斯道院」という名の診療所です(07年5月「ミシェル・ソーレ神父の足跡」参照)。入口右側に古い聖堂があります。「雪の聖母聖堂」と呼ばれているこの建物は昭和60年に西鉄グランドホテル(旧西鉄本社・松本健次郎別邸)前の大名カトリック教会から移築されたものです。以下、聖マリア病院「雪の聖母聖堂建築概要」、井手道雄「西海の天主堂路」新風舎、柳猛直「ふくおか歴史散歩6」を基礎にしてご紹介します。

 この聖堂が福岡市大名町に造られたのは明治29年です。煉瓦造りの教会堂として全国で5番目に古いものです。これより古いものは大浦天主堂(元治元年)・出津教会堂(明治15年)・聖ザビエル天主堂(明治23年)・井持浦教会堂(明治28年)の4つしかありません。

 福岡におけるカトリックの宣教は、明治20年、パリ外国宣教会のエミール・ラゲ神父により開始されます。当初は教会堂が無かったので民家を借りて始められました。ラゲ神父は3年間で36名に洗礼を授けます。神父は聖書の翻訳や仏和大事典の編纂も行い、福岡におけるフランス語教育にも大変な貢献をしました。
 ラゲ神父後任として赴任したのがルッセル神父です。明治22年に着任したルッセル神父は教会堂建築のため大名町の現在地(西半分)を購入します。
 次いで同25年に着任したベレール神父は布教のため「人目を引く美しい聖堂の建設を」と呼びかけを行い、多くの信者(海外を含む)から多額の寄付が募られました。ベレール神父は寄せられた寄付金をもとに聖堂建築に取りかかります。当時、福岡には洋風建築が無かったのでベレール神父は自ら設計を行い大工・井上弥六氏に赤煉瓦を焼くことから指導しました。
 建築は尺を単位として行われ、柱と柱の間が9尺・中央の広い柱の間が18尺です。これは脇間の2倍を中央間とするヨーロッパのゴシック建築と同じ方法です。
 明治29年に天主堂は完成し「勝利の聖母聖堂」と呼ばれました。

 神父は明治31年に天主堂の東側の隣地も購入して現在の教会敷地が整備されました。がこの場所は江戸時代から「萬町の曲がり角」と呼ばれた角地(敵の侵入を防ぎやすくするため意図的に作った角地)でした。明治末年、福岡市は路面電車を通すため教会敷地を削る形で道路を直線化する計画を発表します。教会は建物の撤去を要求されたのです。


              (ゼンリン住宅地図から引用・彩色は樋口)

 苦境に陥ったベレール神父は東京大司教館のエヴラール神父を通じ、時の内務大臣(西園寺内閣)原敬に善処を依頼しました。原敬は青年時代にエヴラール神父と一緒に勉強し、日本語とフランス語を教えあう仲だったからです(原敬は東京大司教館に下宿して法律学校に通いましたが、その間に洗礼を受け、ダビデ・ハラの洗礼名を与えられています)。
 内務官僚のボスである原敬からの介入を受けて福岡市は計画を断念します。福岡の行政マンに対する内務大臣の力は絶大だったのです。このため道路が曲がったまま残り、後年路面電車の難所として知られるようになりました。路面電車の電源のポールがよく外れ、時には脱線もしました。車輪とレールのきしむ音は周辺住民を悩ませました。事情を知っている人はこの曲がり角を「ベレール神父のS」と呼びました。しかし、ベレール神父は「原敬のS」と呼んでいたそうです(柳135頁)。(グーグルマップ


 昭和59年、大名カトリック教会において新聖堂(現在のカテドラルセンター)建築の計画が持ち上がった際、この古い聖堂は取り壊されそうになりました。が、九州大学の土田助教授と聖マリア病院長(当時)井手一郎先生のご努力により聖マリア病院内に移築保存されることになりました(移築費用は聖マリア病院が負担)。耐震基準の関係で、現在は単純な煉瓦組積造は認められていません。そこで作業にあたった戸田建設は、煉瓦壁厚の一部を鉄筋コンクリートの壁構造とし、その上に煉瓦を貼り付ける難しい工法を採用したそうです。

 玄関部妻面の円形版には「天主堂」「公教会」の文字が刻まれています。中央には円形のバラ窓があり、デザイン上のアクセントとなるとともに内部採光にも効果を発揮しています。

 聖堂の前には聖母像があり、その右横にはルルドの泉が再現されています。


 現在、この建物は病院職員の心の拠り所となっています。入口は午前8時から午後6時までいつも開かれており患者さんも気軽に立ち寄って心を癒すことができます。極彩色のステンドグラスから内部に差し込んでくる光は美しいものです。         


 パイプオルガンから流れる音を想像しただけで荘厳なイメージに包まれることができます。


 バラ窓から差し込む光が優しさを感じさせます。  


 柱は木製であり、いずれにも丁寧な彫刻が刻まれています。


 天井は見事なリブ・ヴォールト式(こうもり天井)です。


 キリスト教にとって医療行為は特に重要な意味を持っています。 
 山形孝夫「治癒神イエスの誕生」(ちくま学芸文庫)によれば、聖書に記されている「隠喩としての病気」の意味はヘブライ聖書(旧約聖書)と福音書(新約聖書)で正反対です。
 ヨブ記やレビ記における病気は不幸(呪い・穢れ)の隠喩ですが、福音書におけるイエスの治療行為はこれらの不当な意味を剥奪しています(むしろ病人こそが神に近いことを暗示しています)。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である・私が来たのは正しい人を招くためではなく罪人を招くためである」(マルコ2・17)という逆説的表現は当時の民衆に希望を与え、支配階層に怒りや憎悪を生じさせるに十分なものだったことでしょう。
 「病人(弱い人)とともにある」という崇高な理念をあげたからこそキリストの教えは世界中に広まったのですね。聖マリア病院も同じ理念の下に営まれています。だからこそ真のキリスト者である井出一郎先生は高額な移築費用を負担してまで、壊されそうになっていたこの古い聖堂に「新しい命を与えたい」と願われたのだと私は感じています。
 この聖堂は、福岡大名の地からいったん姿を消したものの、御心により久留米で新しい命を得て蘇りました。マリアの聖堂は「現世において苦難を味わった者が生まれ変わって多くの民衆を救う心の拠り所となる」というキリスト教の思想を具現化するものだったのです。

 多くの患者さんの命を救うとともに古い聖堂の命をも救った名医・井手一郎先生は平成16年1月20日にお亡くなりになられました。ご葬儀は同月24日この聖堂で執り行われました。