■2018年07月02日(Mon) ちょっと寄り道(国立歴史散歩)
 多摩歴史散歩2回目は国立です。20代の思い出が詰まった懐かしい街です。私の主観が強く出過ぎていますが、数少ないオーラルヒストリーとして、お許し下さい。
 (参考文献)長内敏之「『くにたち大学町』の誕生」(けやき出版)、国立のまち歴史研究会編「国立のまち歴史物語」、水方十根「『大学町』出現」(河出ブックス)、越澤明「満州国の都市計画」ちくま学芸文庫、伊東龍也「妖怪の住む杜・国立市一橋大学」(現代書館)、一橋広報誌「HQ2003・8」、皆川典久・真貝康之「東京『スリバチ』地形散歩・多摩武蔵野編」(洋泉社)、NHK取材班「ラストデイズ忌野清志郎」(Parco出版)など。
* 6月に「『くにたち大学町』の誕生」の著者・長内敏之さんから直接にお話を伺うことが出 来ました(FB友・渡邊豊さんの御縁によるものです)。以下の文章は長内さんの御教示によるところが大です(もちろん文責は私にあります)。記して御両名に謝意を申し上げます。

 西国分寺駅を出た中央線快速列車はしばらく視界が悪い。両側にコンクリート壁面があり、壁の上に民家が多数並んでいる。中央線が武蔵野面(崖線上部)を掘り込んで敷設されたことを物語る。が国立に着く直前、列車が崖線を抜けると一気に視界が開ける。いつの間にか線路は周囲よりも高い所を通っている。列車は立川面(崖線下部)に出たのである。
 国立駅に着いた。駅は私が学生時代を過ごした頃と雰囲気が違っている。昔は三角屋根の特徴的な駅舎があったのだが、今は存在しない。この三角屋根の駅舎はフランク・ロイド・ライトの影響を受けた河野傳の設計によるものである。施工は清水組とされている。
 南口を出ると「国立文教地区」の看板が目に入る。昭和27年に国立は「文教地区」に指定された(原因は後述)。看板の向こう側に広い大学通りが見える。春は無数の桜に彩られ、秋は紅葉で飾られる大学通りは国立の象徴だ。看板の反対側に国旗掲揚台がある。国立に住んでいた宇垣陸軍大将の揮毫によるものである(昭和15年に皇紀2600年を記念し築造)。
 現在「くにたち」と呼ばれている大学町は大正時代「谷保(やぼ)村」と呼ばれていた。甲州街道沿いに開けている村であり、北側は広大な雑木林であった。この100万坪もの土地を大正14(1925)年に箱根土地株式会社(社長・堤康次郎)が買収した(文化を全面に打ち出した同社の土地開発については2018年3月2日「池袋歴史散歩」参照)。100万坪もの広大な土地の買収が何故に可能であったのか?現在もその過程は謎である。
 堤は最初から学園都市を意図してこの地を購入した(当時37歳)。堤は国分寺・立川間に新駅を作り、この駅を中心に区画の明確な新学園都市を構築することを目指した。堤は部下中島のぼる(妻ふみの妹の夫)に造成計画を任せたが、中島だけではこの計画を実現できなかった。広大な大学通りは後藤新平(満鉄総裁)の後押しで実現したものである(「都市研究会」人脈によるもの)。後藤は台湾や満洲で都市計画を指揮した経験があった。国立の都市計画は「満洲国」の首都「新京」(現在の長春)の街区に酷似している。長内さんは「後藤新平による都市計画図が中島に受け継がれた可能性が高い」と推測しておられる。
 大正14年9月9日付で締結された箱根土地株式会社と東京商科大学との契約は民間企業である箱根土地が合意するとは信じられないような内容である。
 「箱根土地と商大は神田一ツ橋の敷地3400坪と谷保の土地7万3230坪(大学の指示に従い整地したもの)を交換する。箱根土地は国分寺から大学まで幅5間の道路を開通させる。箱根土地は大正15年6月までに中央線に停車場を建築し鉄道省に寄付する。箱根土地は道路・上下水道・電力供給の設備を完成させ大学に不便を掛けることのないよう誓約する。近隣土地の開発に関しては常に大学の意見を聞き尊重する義務を負う。」
 かようにしてスタートした「くにたち大学町」であるが、当初から順調に開発が進んだのではない。開発に当たって、箱根土地は巨額の損失を出した。資金繰りに困って売却価格を下げたからである(昭和5年頃はニューヨークの株式大暴落に端を発する世界的不況の時代だった)。が、箱根土地は通俗的な店舗や工場には土地を売らなかった。商大のための街作りが根底にあった。それが佐野善作(商大学長)との約束だったのである。
 大学通りの桜並木は昭和9年から10年にかけて当時の皇太子(現在の天皇)誕生を記念して谷保村青年たちと国立町会の方々によって植樹されたものである。大学通りにはシャンゼリゼ通りと同じ街灯(レンツ社製)が設置されている。私が在籍していた昭和60年に設置工事が行われた。設置したのは大学通り商店会。この街灯設置によって大学通りのオシャレ感は格段に増した。この時の設置工事は商店会の範囲だけであった。美観向上に感銘を受けた国立市長が大学通り南側部分を全てレンツ社製に統一して現在に至っている。

 しばらく南に歩くと、雑木林を柵で囲ったような一角が通りの両側に広がっている。ここから南側が一橋大学のキャンパスである。かつての武蔵野の原野は(建物や通路やグラウンドなどは整地されたものの)角地にそのままで残された。そのために我々は都市として整備される前の谷保村の姿を、ごく一部ではあるが、イメージすることが出来るのである。
 一橋大学について概説する。初代文部大臣・森有礼が明治8(1875)年に銀座に開設した私塾(商法講習所)としてスタートした。9年後、農商務省の直轄となり、東京商業学校と改称される。翌年、文部省直轄となり、東京外語学校と合併した。2年後に高等商業学校と改称されるものの、東京外語学校が分離し東京高等商業学校に改称された。大学に昇格したのは大正9(1920)年で、当時は神田一橋にあり「東京商科大学」と呼ばれていた。
 大正12年に発生した関東大震災により商大のキャンパスは壊滅した。学長だった佐野善作は堤が率いる箱根土地と協議を進め、当時は未開の地であった谷保村への移転を決意した(それはどれほど大変な事業であったか)。商学部・専門科は昭和2年、本科は昭和5年に国立に移転した。商学部・経済学部・法学社会学部の3学部として「一橋大学」と改称されたのは大戦後の昭和24年である。2年後に、法学社会学部が法学部と社会学部に分離されて現在の4学部制になった。各学年に約1000名程の学生が在籍している。ゼミナールを必修とする課程に象徴される「少人数教育の伝統」は今も変わっていない。
 西キャンパス正門を入る。ゆるやかな左カーブの道を歩く。武蔵野の面影を残す松林の視界が急に広がり昭和初期に構築された建物群が姿を見せる。右に兼松講堂・中央に図書館・左に本館である。その間に長方形の池があり、脇にはベンチが設けられている。
 優美な姿を見せるロマネスク建築物。これが一橋のシンボル兼松講堂だ。鬼才・伊東忠太の設計によるものである。株式会社兼松商会(現・兼松株式会社)が、創業者・兼松房次郎の13回忌に当たる大正14年に寄付した50万円を用い建てられた。日本の大学建築の多くがゴシック様式であるのに対し兼松講堂は本格的なロマネスク建築として存在感を示す。
 ロマネスク建築は11〜12世紀につくられたキリスト教の教会の作風を指す。ローマ風建築という意味である。ロマネスク様式の特徴として怪獣の存在が挙げられる。兼松講堂も多くの怪獣の彫刻物で彩られている。これらは設計者である伊東忠太が大の怪獣好きだったことによる。開口部は全てアーチ状。独特の丸みを帯びた柔らかい雰囲気に満ちている。
 ロマネスク様式について藤森照信・東京大学教授が説明されているので援用する。
 「兼松講堂を正面から見ると、出入り口や窓が連続した半円形のアーチで構成されています。これがロマネスク様式の大きな特徴のひとつです。ロマネスクはスペイン経由でイスラム文化の影響も受けていましたから、アラベスク模様、つまりアラブ風の模様もまぎれこんでいます。さらに近寄ってみますと、そこかしこに怪獣がとりつけられています。人なのか動物なのか植物なのかよく判らないものがほとんどです。そういう正体不明の怪獣が複雑に絡み合って、からだの途中からねじれた紐のようになってしまう。絡み合う・繰り返すというのは生命現象の象徴だと思うのですが、ではこういうネコだかライオンだか判らないような怪獣のそれぞれが何を意味しているか、ということになると全く判りません。ロマネスクは何故こういう怪獣を取り入れたのか?ローマ人以前のケルト民族やローマ人以降のゲルマン民族は、キリスト教を受け入れたといっても、それまでの土着的な宗教を捨てきれなかったんですね。ですから精霊信仰に由来するいろんな図像をキリスト教会や修道院の中に組み入れた。しかしキリスト教としては困るわけですね(笑)。キリスト教というのはとても合理的な宗教で、キリスト教の図像学では人だか鳥だか植物だか見分けがつかないような怪獣はすべて悪魔のシンボルになっています。このためゴシック以降、そういう怪獣はどんどん削ぎ落とされていった。そして現在ではそれぞれの怪獣が何を意味しているのか判らなくなってしまった。」
 怪獣が住み着いている兼松講堂を、これを設計した伊東忠太を、私は敬愛している。
 正面に見えるのが図書館。高い時計台を備えているが、安田講堂のような威圧感はない。この建物は伊東忠太の設計思想にもとづき文部省建築課職員設計により構築されたものである。入口上で怪獣が来る者をにらむ。これも伊東忠太の指示によるものと思われる。入口の半円アーチにはコリント式オーダーが配されており、ドアノブにも素敵な意匠が見受けられる。図書館は大型の建物なのだが、小さい所にも細心の注意が払われている。
 左にあるのが本館。これも伊東忠太の設計思想にもとづき文部省建築課職員設計で建築されたもの。入口車寄せの四隅には訪れる人に向かい舌を出している複数の怪獣の姿が組み込まれている。これも伊東忠太の指示によるものと思われる。一橋大学のキャンパスは訳の判らない怪獣が多数住み着いている「知的ワンダーランド」なのである。

 西キャンパスを出て大学通りを南に向かう。
 東の道沿いにブリヂストン青年会館がある。ブリヂストン東京工場に働く若者のために建設されたものである(2012年5月21日「東京の石橋正二郎1」を参照されたし)。
 南に歩くと左右に著名な進学校がある。東が都立国立高校(昭和15年開校)、西が私立桐朋高校(昭和17年開校)。両者の間に歩道橋がある。普通の歩道橋だが、設置をめぐって景観論争が生じ訴訟に発展した経緯がある(昭和45年)。さらに南に歩くと右側に巨大マンションがある。私が学生の時には存在しなかったこの建物を巡っても訴訟が提起され(平成13年)最終的に国立市が敗訴した。裁判所は「景観を損ねていない」と言うが、私は多くの国立市民と同様「大学通りの歴史的・景観的価値を大幅に損ねた」と感じている。
 谷保駅舎の右を歩いて南武線踏切を渡る。甲州街道を渡ると谷保(やぼ)天神の入口である。初めて来る人は参道が下り坂になっていることに驚くようだ。その昔、甲州街道は谷保天神の南(低地)を通っていたので参道は上り坂だった。江戸時代に甲州街道が北(崖線上)に付け替えられたので参道は下り坂となったのである。谷保天満宮は昌泰4(901)年に菅原道真が筑紫太宰府に左遷された折、第3子(道武)が連座して現在の国立市谷保に配流されたのが起源とされている。延喜3(903)年、道真の死去に際し道武は父の像を刻み祀った。その後、天神信仰の広範化に伴い武蔵の中心的拠点として興隆したものである(2017年9月2日「大宰府歴史散歩」参照)。2月の下旬だったので園内の梅は満開である。多数の花見客が訪れていたが、私がこの日にここ谷保天満宮に来たのは(花見のためではなく)同時刻に大学入試を受けている次男の合格を祈るためであった。
 谷保駅に戻り立川行き南武線列車に乗る。数分で西国立駅に着く。ここは「西国立」と称されているが立川市に所在する。羽衣町を通り東に向かって歩く。今は全く面影が無いが、昔、この辺りは色街(カフェー街)だった。立川は戦後に米軍基地が設けられた。兵士を見込んだ色街が2カ所(もう1つは錦町)設けられた。須崎の業者が入り、進駐軍向け慰安所(RAA)を経てカフェー街になったものである。2つの色街の出現は一橋大学と市政関係者に危機感を生じさせた。この危機感が昭和27年に国立を「文教地区」に指定させた要因である。
 郵政研修センターの前に出る。ここから駅に斜めに向かう道路が富士見通りだ。駅からこの道の延長線に富士山が見える。特に冬の澄んだ空気の下で明瞭に浮かび上がる。
 昔、富士見通り沿いに、私立の国立(くにたち)音楽大学(大正15年開校)があった(一橋大学よりも早く四谷から国立に移転している)。この音大の本校は昭和53年に立川市の柏町に移転した。現在、富士見通り沿いに存在するのは音大付属の中学と高校である。
 富士見通りの中程にあったのが名曲喫茶「ジュピター」(現存しない)。2年生のとき、私は「三多摩第九合唱団」に加わった。アマチュア合唱団員として舞台に立たせてもらっただけなのに田舎者の私は文化人気取りになり、たまに通った。クラシック音楽を聴きながら本を読みインテリとしての自分に酔っていた。今から思うと気恥ずかしい限りである。

 駅前ロータリーに戻る。大学通り沿いに右折すると「たましん」がある。6階に「たましん歴史資料室」がある。学生時代の私は来たことが無かった。当時の私は郷土史に興味が無かったからである。エレベーターで6階に上り資料室の机に座る。ガラス窓を通して眼下に国立駅の素晴らしいパノラマが広がる。よく見かける国立駅前ロータリーの写真はここから撮影されたものである。この資料室には多摩地域の歴史文化に関する「図書」「雑誌」「地図」「絵葉書」「チラシ」「写真」などが広く収集整理され、市民や研究者の方々へ公開されている。
 大学通りを南下し増田書店に赴く。一橋生と研究者ご用達の老舗書店。駅前の東西書店は無くなったが増田書店が健在なのは嬉しい。国立歴史散歩の材料として国立に関する地図と若干の書籍を購入する。入口の近くに地元出身の超有名人である忌野清志郎に関する特設コーナーが設けられていたので「ラストデイズ・忌野清志郎」を購入する。
 近くにあるのがドトール・コーヒーショップ。司法試験受験生のとき何時間も粘った。私は基本的に図書館で勉強していたが、同じところだけでは飽きてくるし閉館後の勉強スペースも必要だった。単価の低い客は店にとって迷惑だったと思うが貧乏受験生にとっては有り難い店だった。2階窓際カウンター左端が私の定番であった。30年ぶりに同じ席に座りコーヒーを飲みながら当時の心象風景を思い出した。30年後に、受験生の父親としてこの店に来ようとは夢にも想っていなかった。私は3年後の自分の未来すら描けていなかったのだ。
 高級スーパー「紀伊国屋」の前を通る。俗に「国立マダム」と言われるセレブな奥様方が買い物をされる高級食材のお店という印象が強い。国立に7年も住んでいながら学生時代の私はこの店に入ったことが無かった。貧乏学生が入れるような雰囲気の店ではなかったのだ。
 横断歩道を渡り東キャンパスへ向かう。私がいた時代は貧弱だった東キャンパスは学制改革により1・2年生も国立で学ぶことになったため、当時とは見違えるほどに充実している。小平のキャンパスは使われなくなったが、前期学生のための学祭は昔のまま「KODAIRA祭」と呼ばれている(毎年6月に開催される)。11月の学祭は「一橋(いっきょう)祭」という。
 伊東忠太の設計により昭和4年に完成した東本館はそのままである。当時テニスコートがあった場所に前期学生のための巨大な新校舎が建てられている。大学院生のため存在した少し怖い感じのトンガリ屋根の建物(院生寮)はとうの昔に取り壊されている。
 東キャンパス通用門を出ると閑静な住宅街だ。門を出て直ぐ右の4畳半アパートに私は1年程住んだ。後述する「中和寮」に居られなくなった後、人の目を憚る気分で独り住まいした。司試の勉強は6年目に入っていた。5回目の受験で合格したときはホッとした。修習生になった後も前期の4ヶ月はここから2時間近くかけて湯島に通った。東京都心まで通勤する過酷さを良く理解できた。このアパートも既に取り壊されて更地になっている。
 東に向かって歩く。左手に「三幸」という飲み屋さんがあり「あぶらそば」が名物であった。マスターは根岸さんといわれ、元ボクシング選手であった。貧乏学生を相手に面白い話を良くしていただいた。既にお亡くなりになられていると聞く。合掌。

 旭通りと多摩蘭坂の通りの角の信号を渡る。この道路は前述大正14年9月9日の箱根土地と東京商科大学との契約で設置された「国分寺から大学までの幅5間の道路」である。
 まっすぐ行って右側のビルの1階に理容室があった。長崎県出身と言われていたご主人からは貧乏学生のために「モデル」と称して無料で髪を切ってもらっていた。感謝。
 「中和寮」。外観は補修されたが概ね昔のままである。私はここで6年を過ごした。普通は2年しかいない寮に6年も居座っていた私は「中和寮のヌシ」のような存在だった。ウソみたいに安い寮費であった。大人気だった歌番組「ザ・ベストテン」の収録のためにデビュー後間もないアイドル・菊池桃子が食堂にやってきて大騒ぎになったことがあった。これは中和寮出身であるテレビプロデューサーが後輩のためにサプライズの演出をしてくれたものであった。
 中和寮の前の道を国分寺方面に3分ほど歩くと、多摩蘭坂だ。国分寺崖線を斜めに横切る坂である。坂の途中(北側)に多摩蘭坂の由来を記した石碑が設けられている。
 この場所は忌野清志郎が作詞作曲した「多摩蘭坂」であまりにも有名である。
         ♪多摩蘭坂の 坂の途中の 家を借りて住んでる♪
 清志郎は5月2日が命日だ。彼が亡くなった時は石碑に無数の花束が掲げられた。今も命日である5月2日には多摩蘭坂に多くのファンが集まり彼の曲を歌いながら偲んでいる。
 清志郎には「僕の自転車の後ろに乗りなよ」という曲もある。
         ♪坂を下って 坂を下って 国立に行こうか
          大学通りを 大学通りを 2人乗りしようよ
          一つ橋の 一つ橋の 芝生に寝ころんで♪
 日本を代表するロックシンガー忌野清志郎が一橋大学を歌詞に盛り込む曲を歌っていたことを当時の私は知らなかった。今、あらためて彼の存在の大きさを感じる。メタファーに満ちた繊細な歌詞を持ち味とした清志郎が「カバーズ」において直接的メッセージを発信するようになったことに対しては彼のコアなファンからも賛否両論があったようである。しかし(政治的な立場はどうであれ)当時の社会体制(政治)に対する清志郎の真摯なメッセージは、音楽界をはるかに超えて、日本の核心をゆるがす存在感を得ることになった。私は音楽には詳しくないが、ロックという音楽形態が社会への異議申立を旨とするものであるならば、忌野清志郎こそ「真のロックシンガー」というに相応しい。中和寮に住んでいた御縁で、私は清志郎と(ほんの少しだけであるが)「同郷の志」としての心情を感じさせてもらえるのである。
 旭通りを通って国立駅方面に戻る。銭湯「鳩ノ湯」がある。国立市内に残る唯一の銭湯である。ここには2月に1回くらい通っていた。もちろん大学の寮にも風呂はあったのだが、銭湯に行くことは受験生時代の私のささやかな贅沢だったのである。
 しばらく行くと「ユマニテ書店」がある。ここの国分寺支店で私はバイトをしていた。本当にお世話になった。店主である宮國さんは(奥様共々)未だ御健在である。
 自宅への土産に隣の近江屋酒店で「くにたちワイン」を購入して国立駅に戻る。

 国立駅には2020年に三角屋根の駅舎が復元されるという。厳密には駅舎では無く国立のシンボルとして観光案内所・展示室・情報発信基地・待合室など多くの機能を持たせた建物になるとされる。市はこのためにJR東日本から土地を買収。取得費の内1億9000万円は国の補助金、残りは市民からの寄付金や駐車場収入で賄う予定とされている。
  国立は駅を中心として開発され発展した街である。長内さんが「『くにたち大学町』」の誕生」を執筆されたのは、政治の世界で活躍された長内さんが議論をしているときに他の方々があまりにも国立の歴史を知らないことに嘆かわしさを感じられたからだと伺った。国立の街には誇るべき歴史が詰まっている。多くの方々に大事にしていただきたいと願う。