| ■2008年12月12日(Fri) 旧金文堂ビル |
久留米の裁判所から南側に歩いて4・5分の所に「茶の華庵」という洒落たレストランがあります。このレストランが入っている古い建物は金文堂書店の本社として誕生したものです。 ![]() 文久元(1861)年,菊竹儀平は金文堂書店の前身である書店「二文字屋」を久留米に創立しました。儀平は書店創立後さっさと二代目の長男嘉市(18歳)に家督を譲ります。嘉市は翌文久2年、日本初と言われる新聞「バタビヤ新聞」を発行します。東京や大阪にも出向き、大手出版社とも取引を始めました。明治25(1892)年、嘉市は取引のあった東京・大阪の一流の版元や書店から1文字ずつを取り「金文堂書店」と屋号を改めました。そして「薄利多売」「経費節約」「人物養成」という3つの方針を立てて職務に邁進していくのです。 嘉市は明治29年に書店の暖簾分け制度を創始します。この暖簾分けによって生まれた書店が形成している親睦会を「金文会」と総称しています。金文会は日本の出版・書籍販売の歴史に大きな足跡を刻んでいます。九州には「金」「文」の文字をつけた書店が多数ありますが、これらはほとんど全て金文堂の暖簾分けで生まれたものなのです。(余談ながら、先日この文章を書くためにお店に行ったところ、都渡社長がわざわざ事務所までおいでくださり、金文会について書かれた書籍「金文会90年誌」をいただくことができました。後に掲載している古写真はこの書籍からの引用です。社長の娘さんが藤井フミヤ氏の奥様です)。 金文堂は明治38年に県の教科書特約店となり信頼を集めますが、明治42年に火災で社屋を喪失します。そのため明治43年に仮社屋が建設されますが、大正時代の好景気にのって新社屋建設が計画され、大正15年5月に新築されたのがこの美しいビルなのです。1・2階が書籍の販売スペース、3階が催し物場であり、4階には喫茶室までありました。 ![]() ![]() ![]() ![]() 金文堂は単なる書籍販売業ではありません。野田宇太郎(08年1月「薩摩街道と松崎宿」参照)が昭和8(1933)年に弱冠23歳で第1詩集「北の部屋」を出版したのは金文堂の刊行によるものです。また私がこのコラムを書く際しばしば参照している篠原正一「久留米人物誌」(昭和56年)も金文堂の刊行によるものです。金文堂は出版社としての性格を持つ久留米における情報発信基地でもあったのです。 横浜開港資料館のHP(館報・開港のひろば)によると、同館には金文堂の明治23年11月17日付新聞取次広告が残されており、このなかで金文堂は「国会の開設にあたり府下の新聞は驚くべき競争を持って互いに意匠を凝らし国会開設を注視している。そのため、新日本立憲政体の下に身を置こうとする人は新聞を読むべきである」と主張しています。嘉市がいかに高い使命感を有していたかがよく判ります。 私が金文堂を初めて訪れたのは中学2年生の時です。アマチュア無線(電話級)の国家試験を受けるためのテキストを買う目的です。八女にはそのような専門書籍がなかったので、久留米まで買いに来たのです。天井まで積み上げられた書籍の山に私は圧倒されました。 私の父は職人で、家にはまともな書籍がほとんどありませんでした。なので小学生の頃は学校の図書室から本を借りて読んでいました。小学校では図書委員になり読書週間の標語も作りました。「読書とは意義ある暮らしの代名詞」(俳句調)「政治・経済・文学・歴史、学ぼう みんなの図書館で」(どどいつ調)。八女でそんな小学生時代を過ごした私にとって、久留米の金文堂は憧れの存在でありました。 大衆消費社会の進展やテレビの普及と共に書店の社会的地位は昔とは比較にならないほど低下しました。書物の流通販売にかかわる方々の経済基盤はインターネットによる直接注文の発展によって危機に直面しています。車社会化により駐車場を備えた郊外型書店(主力商品は音楽・ビデオ)の拡大は従来型の書店経営に打撃を与えています。 金文堂もかかる流れの中で数年前にこの社屋を売却しました。現在、金文堂は外商部門がここから道を挟んで数十メートル離れた所に、一般客部門が六ツ門のビルの1階に各々移転しています。久留米の金文堂という名誉ある名前を消さないために頑張って欲しいと私は願っています。金文堂書店ホームページ |