■2018年05月16日(Wed) 病状の予見可能性と因果関係
 交通事故事案に於いて病状の予見可能性は因果関係を肯定するための要件なのか?この問題が争点となる事案を高等裁判所で議論したので紹介します。珍しい病名の疾患は「予見できないから」といって因果関係そのものが無くなってしまうのでしょうか?
 以下に挙げるのは心療内科系の疾患に関して発生が希であることから因果関係を否定した福岡地裁久留米支部判決に関し福岡高裁に控訴した事案の準備書面の一部です。

1 被控訴人の主張
  被控訴人は交通事故事案においても「病状の予見可能性」が相当因果関係を肯定する絶対的要件であるかのように解釈しているようである。その上で交通事故と被害者の自殺の相当因果関係を肯定した最判平成5年9月9日について「自殺が予見可能であったから相当因果関係を肯定した」とする。かような理解を前提として本件*(病名)については「予見可能性がない」から相当因果関係がないというのである。極めて奇異な主張である。
2 最判平成5年9月9日の解釈
  この判決には「自殺が予見可能であったから相当因果関係を肯定する」との文言は存在しない。逆に言うと、第1審判決に見受けられる「通常人においても予見することが可能な事態と言うべきであるから」という判断根拠の部分は削除されている。
  この判決は下級審の「相当因果関係を肯定して大幅な素因減額を肯定するという」全体としての紛争解決枠組みを是認しているに過ぎず、かかる「結論的な部分」を上級審として認めたところに意義があるのである。北河隆之氏は素因減額理論の解説の中で「むしろ、従前被害者の請求棄却になるような事案につき、割合的には損害賠償の一部が認められるのではないか・この程度なら被害者のために認められるべきであるという立場から検討されたものであることに留意する必要があろう」と述べられている。これが交通事故賠償問題にかかわる実務家の感覚に合致している。被控訴人の感覚のほうが非常識である。
  最高裁がこれら類型の中の特殊例として「交通事故後の自殺」を扱っているのは明らかである。こういった事案は客観的な事故状況や治療経過から「この程度ならば加害者に賠償させるのが適当」というリーガルマインドがまずあって、その説明プロセスとして「素因」という言葉が使われているに過ぎないのである。別紙添付「民事弁護と裁判実務」(執筆者は釧路地裁北見支部判事の斉藤大巳)でも最判平成5年9月9日の意義として「被害者の自殺について、これを予見可能であったとしてして処理した1審判決及び原判決と異なり、この判決は予見可能性に言及すること無く相当因果関係を認めていること」を指摘している。
3 理論的な問題
  被害者の自殺も「交通事故自殺」と「いじめ自殺や過労自殺」では意味が違う。
  「いじめ自殺や過労自殺」は特定の継続的な関係に於いて、当事者間に長い時間をかけた接触過程があり、かかる人的な継続性を前提として、自殺の予見可能性が肯定されている。かような事案においても自殺の予見可能性を根拠とした因果関係の成否が議論されているのではなく、素因減額の類推適用の場面に於いて減額幅を減少させる要素として機能していることが多い(ゆえに過労自殺では減額自体が否定されたこともある)。
  しかし「交通事故」は誰が当事者になるのかは全くの偶然である。事故自体は一瞬で起こることであり、運転者には特定の誰かに対する加害意思があるわけが無い。後の治療プロセスに加害運転手は関与しないので事故当時の加害運転者にとって特定の誰かに関する心的状況(特に自殺を引き起こすほどの心的状況)への予見可能性が生じるわけがない。精神科医ですら、患者が自殺をするか否かに関して予見可能性はほとんど無いと述べる者が多い。いわんや一般人が交通事故という「全く社会的接触の無かった当事者間で生じるアクシデント」に関して自殺をすることは予見不可能である。
 最判平成5年9月9日の事案は科学者の目線(プロスペクティブに考察する)で言えば相当因果関係は否定されるはずである。軽微な事故(後遺障害等級14級)後、3年6月も経過し自殺することとの因果関係は自然科学的には否定されることのほうが自然である。いわんやその予見可能性を肯定することは絶対に不可能である。
 事故後の自殺事案で最高裁が相当因果関係を認めた趣旨は「80%の大幅な減額をするという大前提を置くならば」予見可能性を問題にせずにこれを肯定するという社会的な見地にある。これは従来の予見可能性を重視する相当因果関係理論の下においては因果関係を肯定でき難い事案に関し、そのまま棄却するのでは被害者原告にとって酷である場合に、バランスを取るため(加害者保護のため)多めの(50%以上の)減額を認める代わりに(被害者保護のため)相当因果関係を肯定して結論の妥当性を図るものなのである。
 前述の「民事弁護と裁判実務」において斉藤大巳裁判官は「予見可能性によるという制限はもともとは当事者間の特性に標準を置く契約法の分野で採用された責任制限の原理なのであって、特定の社会的関係に立たないのを建前とする不法行為の被害者・加害者間の責任制限原理として必ずしも適切ではない」と述べられている。このことは著名な学者からも指摘されてきたことなのであり(四宮和夫「不法行為」408頁注(二)参照)、学者や実務家に広く共有されてきた認識である。この認識に基づく控訴人の主張を「独自の主張」と言い放つ被控訴人の主張こそ実務家として全く「非常識」というべきである。
 
* 福岡高裁の判断が示されたら追って御紹介します。
* 高裁判決を受領。因果関係の問題ではなく結果の発生(「発症」の事実そのもの)を認定できないというレベルで切られてしまいました。なかなか難しいですね。