■2019年06月12日(Wed) 5者128
 東山彰良氏は「推敲論」でこう述べています(西日本新聞2017年5月25日)。
 小説を書き上げた直後というのは試験の答案を書き終えた直後と似ている。いくら見直ししても悪いところが見えない。だから私は一度自分が書いた物語を忘れ、まっさらな状態で推敲するよう心がけている。そのようにすれば、それまで気がつかなかった、いろんなことが見えてくる。ときとして自分が書いた文章がまったく理解できないということもある。私はそうやってひとりよがりな哲学や悪臭を放つ文章をどうにか耐えられるものに練り直してゆく。(引用終)
 およそ知的な構築物を世に出す際には「推敲」という作業が不可欠です。
 訴状や準備書面を提出する場合、私は出来上がったものを直ぐに出すことはありません。たとえば提出日を7月1日と見込んだ場合、遅くとも6月25日頃には完成品に近いものを仕上げています。提出用ファイル棚の処に置いています。他の仕事に取りかかります。しかし、いったん手を離れた後でいろいろ気になる点が出現するのです。自分が書いた物語を忘れ、まっさらな状態で文章を見返すと、それまで気づかなかった多くのことが見えてきます。その結果として気になった部分があれば補正を施します。これは「他の人に読んでいただく文章をアウトプットすること」を職業とする者の基本的な所作ではないかと私は感じます。
 このコラムの文章にしてもそうです。「5者のコラム」にあげている文章は概ねアップする1年以上前に準備しているものばかりです。相当の期間を寝かせた状態にしています。しかし、その寝かせた期間に修正が加わるのです。私は寝ているファイルを読み返します。文の構成を完全に入れ替えたことがあります。削除したことも多くあります。他の文と結合させ別の読み物にしたこともあります。これらは「独りよがりな点や悪臭を放つ文章」を発酵させ「他の人が読むに耐える文章」に仕上げるための大事なプロセスだと私は思っています。