■2018年02月09日(Fri) 易者 114
 島田裕己「死に方の思想」(祥伝社新書)に以下の記述があります。
 家督相続の時代は財産は全て亡くなった当主から次の当主に受け継がれます。(略)ところが1947年に法律が変わり、家督相続ではなく均分相続になると、遺言で自由に出来るのは半分。あとの半分は法律で定められる配分に従って法定相続しなければならなくなりました。これで家のあり方がすっかり変わりました。それまでは家督相続というものがあるために当主がある程度の年齢になったときに引退して隠居していたのです。それまでは家を守って家に多大な貢献をしているわけですから、財産を受け継いだ新しい当主は隠居した前の当主の面倒を見なければならないのは当然でした。(略)井原西鶴や伊能忠敬など、隠居してから本来自分がしたかったことに挑戦した歴史上の人物もいます。または旅に出たり西行法師や松尾芭蕉のように漂泊する。そういう人生のあり方もありました。(29頁以下)
 上記記述の「遺言で自由に出来るのは半分」というのは間違いです(遺言で遺産全部を処分することが可能・法定相続分の半分は遺留分として減殺され得る)。 ただ家督相続という制度により、ある程度の齢になったとき引退して隠居することが公的に認められていたことには憧れのようなものを感じます。井原西鶴や伊能忠敬が良い老後を過ごせたのは「隠居」したからです。西行法師や松尾芭蕉が漂泊をしながら自由に創作を続けられたのは出家という「隠遁生活」をしたからです。自分の人生に(生前葬的な)区切りを付け、以後は半分死んだような者として自由に生きる。ここには現代社会において高齢者が生き甲斐を持ちながら余生を過ごすヒントが示されているように感じられます。現在、法制度としての家督相続は認められていません。しかしながら「気分としての家督相続」と「隠居生活・隠遁・漂泊」には再認識されるべき価値があるのではないかと私は考えています。
■2018年02月05日(Mon) 役者 114
 新井一「シナリオの基礎技術」(ダビッド社)に次の記述があります。
 小説は地の文とセリフから成立し、演劇台本はセリフとト書から成立しています。つまり小説では地の文があるために主観的に物語をすすめることができます。「彼は彼女に恋を打ち明けたいと思って迷った」というように地の文で心理描写や感情を表現することが出来ます。ところが演劇の場合、地の文に相当するト書では動作(仕草)でしか表現できません、つまり「恋を打ち明けたいと思って迷った」という表現はセリフか何かでなければ表現できません。といって「私はかの時に恋を打ち明けたいと思って迷っているのだ」とセリフで言ったところで芸術的な感銘にはなりません。そこで戯曲は、どう彼の気持ちを観客に伝えるか、この技巧がドラマツルギーになって発達しました。別の表現が工夫されたわけです。(30頁)
 以前述べた如く(役者22・08/11/17)裁判所から見れば訴訟の進行にあたり弁護士がその事件をどう思っているのかなど大した意味はありません。弁護士がどう思っていようが、事件の全体的構図の中で、原告側も被告側も、やるべきことはアプリオリに決まっているのです。要件事実は裁判における脚本です。実践者の行為の幅は制約されています。しかし同じ脚本でも演出家や役者の解釈により全く違ったものに演じられます。そこに演出家や役者の個性が表れてきます。演者の気持ちを観客に伝える技巧(ドラマツルギー)如何によって元の脚本は輝きを増したり、逆に陳腐なものに成り下がったりもします。
 訴訟における弁護士の個性や主体性は結構大きい要素です。同じ事件でも弁護士による脚本の解釈と演技により全く違った舞台になります。訴訟という名前の舞台は小説ではないので地の文が存在しません。観客を意識して発話されるセリフと具体的に何をすべきかというト書があるだけです。その空白を埋めるのは事件に対する弁護士のドラマツルギーです。
 弁護士が「個性」や「主体性」を磨かなければならない所以がここにあります。