■2020年08月12日(Wed) 易者 139
 弁護士業務を麻雀に喩えるとき次の名言が浮かびます。「どんな牌が来るかは選べない。選べるのは何を捨てるかだけ。それが選択というものの本質ではないか。」 どんな事件が来るのかは偶然です。どんな依頼者が来るのかも偶然です。どんな裁判官に当たるかも・どんな相手方代理人に当たるかも偶然です。与えられた牌の中で自分の構想を立て何とか実現できるように努力するしかない。ツモは他の人と同じ機会を与えられます。その中で実現確率の高さと結果の良さを天秤に掛けて最大限の努力をするしかない。努力とは選択であり選択とは「何を捨てるか」の決断でしかない。それは100%が自分の主体的な決定です。何が来るかは偶然ですが何を捨てるかに偶然の要素はありません。
 弁護士の業務スタイルにも同じことが言えます。あるスタイルを選ぶことは他の何かを捨てるということです。弁護士の業務スタイルは数多くあります。都会か田舎か・スペシャリストタイプかジェネラリストタイプか・単独型か複数型か・保守型か革新型か、等々。これらは時間の経過によっても変わりますし偶然あるスタイルになることもあります。が、少なくとも特定のタイプに「ならない」という選択は意志的なものです。私も今の仕事スタイルを「選択」したのですが、それは他のあり得た可能性を意志的に「捨てた」ということでもあります。
 現在、私の手の内にある牌はたいしたことのない役かもしれません。でも対局から降りる決断をしていない以上、手の内の牌を大事にしていく他はありません。58歳を過ぎて河の中に並んでいる捨てられた牌(選択できたかもしれない他の可能性)に感傷的になるときがありますけれども、過去を嘆いてもしようがありません。手の内にある牌を大切にして「綺麗な役を上がれれば良いな」と思っています。
■2020年08月03日(Mon) 役者 139
 外国で製作された良質の映画の感想(2題)。
 「セザンヌと過ごした時間」を拝見。エクス・アン・プロヴァンスで同じ中学校を過ごしたセザンヌとゾラ。母子2人で貧しいアパルトマンに住むゾラはフランスの国籍さえ持たぬ移民の子。セザンヌは裕福な銀行家の息子。両者は親友だったが、夢の実現においては対照的だった。ベストセラーを連発し文壇の寵児となったゾラに対しセザンヌは画壇から無視されながら自分の芸風を追求し身なりにも構わない。売れない画家を題材とする小説を書いたゾラとその小説のモデルが自分だと信じたセザンヌは決別した。映画の感想として、パンフレットで後記を書かれている野口由紀氏は「男の友情ってめんどくさっ」と書かれている。たしかにひがんだ男の嫉妬や出来る男に対するねたみはやっかいだ。が男である私の見るところでは、それ以上に「女の友情ってめんどくさっ」という気がします。(2017年11月5日)
 文化は中心ではなく周縁から生まれる。多くのスターが社会の底辺から生まれてきた。屈折した思いをバネに変えてスターに登りつめた者こそ歴史に輝きを残す。そんな思いを生じさせる映画「ボヘミアン・ラプソディ」。クイーンのフレディ・マーキュリー役をラミ・マレックが好演している。この作品の凄みは「栄光・受難・再生」というキリスト教的構図を背景にしつつ実際のクイーンの名曲を多数ちりばめた演奏シーンで往年のファンのみならず若者にも聞くに堪える音楽を多数響かせているところだ。特に1985年に行われた「ライヴエイド」(20世紀最大のチャリティーコンサート)のシーンは1962年生の自分にとっては奇跡的であった。何万人もの観客のいるコンサート画像はエキストラのいるライブフィルムとCGを駆使して作り上げられたものだという。自分がバンドメンバーになったような感覚になる映像の凄みを見せ付ける監督の手法は素晴らしかった。(2018年11月17日)