■2020年10月23日(Fri) 易者 141
 或る日、フェイスブック上において次の秀逸な標語が掲載されました。含蓄がありますので、御紹介するとともに弁護士業務に於ける意味を考えたいと思います。
  1 恋に溺れるのが18才。風呂に溺れるのが81才。
  2 道路を暴走するのが18才。道路を逆走するのが81才。
  3 心がもろいのが18才。骨がもろいのが81才。
  4 未だ何も知らないのが18才。もう何も覚えていないのが81才。
  5 自分探しをしているのが18才。皆が自分を探しているのが81才。
 皆を笑わせるギャグという側面はありますが、ギャグではなく人生の真理をよく表していると私は思います。18才と81才の中間が(およそ)50才です。弁護士業務は上記50才の人間状況に似ています。依頼者が18才だったり81才であったりします。少年事件と高齢者事件を例に考察しましょう。
 少年事件を担当する弁護士は18才のときの心的状態を(自分は既に経験しているのだから)リアルに思い出しておく必要があります。恋に溺れ・道路を暴走し・弱い心に悩み・無知を恥じ自分とは何者かを探し続けていた、あの頃。それはあまりにもリアルな「青春」の姿です。高齢者事件を担当する弁護士は81才の方の心身状態を(自分は未だ経験していないのだから)リアルに想像してみる必要があります。風呂に溺れること・道路を逆走してしまうこと・骨粗鬆症になること・認知能力が低下し失踪扱いになること。これらは決して「笑い」の対象ではありません。それは「死を目前に控えた人間」のリアルな(偽りのない)真実の姿です。弁護士業務は目の前の依頼者の状況を理解し・解釈し・働きかける作業です。自分の過去への「記憶力」と自分の未来への「想像力」を磨いておく必要があります。
■2020年10月19日(Mon) 役者 141
 内藤國雄九段が「芸事」と「将棋」の違いに関して次のように述べています。
  同じ技能でも一方は「力の衰えを頑として認めない」のに一方は「オーバーに認める」。その大きな違いが面白い。どうしてそういうことになるか?不思議な気がしていたが、次のように考えて納得した。どちらもプライドを守りたいという気持ちは同じだが仕事の性格の違いがこういう正反対の結果を生むのである、と。芸事の多くは将棋のようにはっきりと勝負がつかない。一旦できた評価は余程のことがないかぎり安定している。本当に厳しい目を持つのはほんの一握りで、ファンの大半は甘い目で好意的に見てくれるから、胸を張っていれば通用する。皮肉っぽい見方かもしれないが、そういった傾向がある。勝敗の結果を隠せない将棋ではそうはいかない。言い繕っても空しいだけである。それならいっそ力の衰えをしっかり認めてしまったほうが昔はこんなじゃなかったと強調することになり好都合である。まあ、こういった自尊心のからくりがあるのではないか。(将棋世界1994年3月号)
 弁護士の仕事はどうでしょう?法律業務は芸事に近いように私は感じます。訴訟は結果が判決で厳格に示される面が存在しますが、主たる解決方法は和解であって明確に勝負がつかないことも多いのです。弁護士の評価も1戦毎にレーティングが変わるというわけでもなく、為された評価は余程のことがない限り安定していたように感じます。厳しい目を持つのは裁判官・書記官などほんの一握り。昔は市民の大半が弁護士を好意的に甘い目(?)で見てくれたので胸を張っていれば通用しました。この特性のゆえに年配弁護士の多くは法律家としての力量の衰えを頑として認めない傾向にあったように思います。が、今や甘えは通用しません。将棋のように「残念な結果」がネットで瞬時に広まるようになるかもしれません。力の衰えが周囲に露呈しないように「自尊心を持って努力を継続する」他はありません。
■2020年10月14日(Wed) 学者 141
 阿部公彦「100分で名著・夏目漱石スペシャル」に以下の記述があります。
 近代小説では基本的に語られた出来事は既に「過去」に起きたこと、それを事後的に報告するという形式になっています。これがリアリティを保証するための約束事となるわけです。これに対して『夢十夜』は「現在」という感覚がとても強い。現在形で書かれた作品もありますし、過去形で書かれたものであっても、いま目の前でそれが展開しているかのような、現在進行形のように感じられる書き方もする。一見すると、これは「過去形による保証」がないために、真実味に乏しく感じそうですが、そこには独特な没入感が生まれます。今まさに世界が動いている、その「今」の迫力に気圧されるからです。(54頁)
 民事法律実務は「過去の事実」を要件事実(論理パズル)にあてはめて「現在の権利義務関係」を認識するという形式で議論されます。準備書面は過去に起きていた事実を裁判所に事後的に報告する形式で記載されます。これらが主張のリアリティを保証するための約束事となるわけです。しかし当事者本人の「陳述書」を同様のスタイルで作るのでは意味がないと私は考えます。おそらく当事者本人の陳述書は「現在」という感覚が強くないとダメです。過去の事実を語るものであっても、いま目の前でそれが展開しているかのような、現在進行形で感じられる書き方が陳述書には必要なのです。それは過去形による保証がないために(主観の羅列として)裁判官は真実味に乏しく感じそうですが、訴訟において客観性を担保するものは物的証拠であり陳述書ではありません。主張ではなく「証拠」として提出する陳述書は依頼者本人が事件を生身の人間としていかに受け止め感じているのかを表現するものであるべきだと考えます。何故ならば陳述書は物証として提出しているのではなく依頼者本人の「生きられる世界」(環世界)を鮮明に表現するものとして提出するものだからです。
■2020年10月08日(Thu) 医者 141
 青木省三「こころの病を診るということ」(医学書院)に以下の記述があります。
 初々しい研修医時代を経て患者さんを診るようになった精神科医が、精神医学や精神療法を学ぶにつれて「自分は(誰よりも)人のこころがよくわかる」という雰囲気を醸し出すようになることがある。そしてそのような姿勢で患者さんに接している姿を見ると大切なものを失ってしまったのではないかと残念に感じることがある。人は何かを知らない時、またよく判らない時自ずと謙虚になる。そして少しでも判ろうと努力する。しかし、よく判ると思うようになったとき謙虚さが失われる。(略)1人の患者さんに逢っていて判ることなどたかが知れている。目の前の患者さんをしっかりと診て少しでも判ろうと努力し続けることに意味がある。過信した治療者にならないでほしい。自分の欠点と不十分さを自覚していたいものである。(引用終)
 以上は精神科医だけでなく法曹実務家も常に心しなければならない規範だと思います。初々しい修習生時代を経て事件を担当するようになった法曹実務家が臨床法律実務を身に付けるにつれて「自分は人間や社会のことが判っている」という雰囲気を醸し出すようになることがあるかもしれません。かような姿勢で当事者に接する姿を見ると「この人は大切なものを失ってしまったのではないか」と残念に感じることが出てきます。法律家も「自分は人の心が何かを知らない」「自分は社会のことが判っていない」と意識するときに自ずと謙虚になるのでしょう。その自覚の上で「人の心や社会のことを謙虚に判ろうと努力すること・学ぶ姿勢を継続すること」。1人の法律家が自分の担当する事件で認識できることなど、社会全体から見ればたかが知れています。そのような自覚の上で当事者と謙虚に対話し判ろうと努力することに意味があるのでしょう。「自分は人間や社会のことが判っている」と過信した法律家にならないように、自分の欠点と不十分さを自覚し、学び続けていきたいと思っています。