■2017年08月10日(Thu) 易者 109
 最近の若い人はあまり麻雀をしないようです。麻雀はゲームに過ぎませんから出来なくても問題は無いのですが、麻雀が出来ると麻雀特有の表現に出会ったときに喜びを感じます。
 井上陽水は「若さというか不完全さがないと運はついてこない・手練に裏ドラはつかない」と発言しています(斉藤孝「軽くて深い井上陽水の言葉」角川学芸出版58頁以下)。陽水は阿佐田哲也(色川武大)氏の麻雀仲間ですが、阿佐田さんにはあまり裏ドラがつかなかったそうです。経験をつめばつむほど・上手くなればなるほど、偶然の女神が微笑んでくれなくなる。経験をつみ合理的にものを考えるとクールになって、仕組みが判ってものが見えてくると今度は運が逃げちゃう、というのです。逆に経験の少ない純粋な初心者に運が見方をして思わぬ大勝をもたらすことがあります。これが麻雀の面白いところです。
 私は弁護士経験のなかで同じことを感じます。若いころは無鉄砲で、訳もわからず提起した訴訟でも偶然が重なって良い解決を得た事が何度もありました。しかし弁護士生活も10年を超えると裁判の仕組みが血肉として身についてきて、客観的合理的にものを考えるようになります。裁判官の判断傾向も判ってきます。予定調和の世界になります。偶然が重なった運が良い解決は無くなります。経験による手練には<裏ドラ>がつかなくなるのです。
 私は裁判所和解案を麻雀好き依頼者に次のように説明したら判りやすいと言われたことがあります。「今ならダマで平和(ピンフ)上がれます。勝負をかけるのなら3色狙うんですけど、上がれないリスク・振り込むリスクも出てきます。どっちで行くか貴方が決めてください。」
依頼者の多くは平和(へいわ)志向です。リスクを避け円満解決を望む傾向が強いのです。
 麻雀用語を活用すると緊張感を高めず依頼者と話が出来ます。麻雀は運と実力が絶妙に入り交じった面白いゲームです。若い人も1度やってみたらどうでしょうか?
■2017年08月07日(Mon) 役者 109
 或る日のフェイスブックへの書き込み。
 最初の頃の「真田丸」において長澤まさみ演じる「きり」という人物の存在意義が判らなかった。1人だけ口調が軽くてミスキャストではないかとも思った。ある程度物語が進行して初めて「きり」が狂言回し(観客に物語を理解させるため登場する者・脚本家の視点を代弁する)なのだと理解できた。最新の「幸村」の回における「きり」の鋭い台詞は史実ではない。しかし、これを脚本家の視点(脚本家が認識した真田信繁の心的事実)だととらえれば見事にその役割が浮かび上がる。脚本家は今回の台詞を言わせるためにこそ物語の最初から「きり」を登場させていたのだ、ともいえる。(2016年10月11日)
 舞台用語の「狂言回し」は物語の進行役で、背景を説明したり・性格を描写したり・謎をかけたりする役回りです。主人公ではないにもかかわらず、脚本家から他の配役とは明らかに異なった性格を持たされています。狂言回しは主人公を「喰う」場合があります。それは狂言回しが脚本家の視点を代弁する特異な役割を担っているからこそ生じる現象です。
 弁護士は法的舞台に於いて「狂言回し」的役割を担っています。では誰の視点を代弁しているのでしょうか?弁護士は依頼者の代理人ですから、依頼者の視点を代弁するのは当然のことですが、100%ではありません。私の感覚では依頼者は85%です。
 客観的・中立的な立場である裁判所が10%です。この視点を持たない弁護士は法律家と言えません。法律家には「依頼者から離れた視点」を持つことが求められるからです。
 最後の5%が相手方です。弁護士は時に逆の立場からの視点を持つことも求められます。この役柄を演じるのは難しく相当の経験を要します(演じ方を間違うと解任される)。
 以上の役回りを過不足なく演じることが出来る「狂言回し」こそ良い弁護士でしょうね。