■2020年01月24日(Fri) 医者 134
 帚木蓬生先生は東京大学文学部を卒業し、マスコミに就職され、猛勉強して九州大学医学部に入り直した経歴を有する異色の精神科医です。福岡県中間市にてメンタルクリニックを開設しつつ執筆活動を継続されるというマルチな才能を発揮されています。近隣の大刀洗町で先生の講演会が開かれた際、私は至近距離でお話を伺う機会がありました。禁教時代の今村におけるキリシタン信仰に関する講演でしたが、ロビーで行われていた書籍販売会で私は「ネガティブ・ケイパビリテイ・答えの出ない事態に耐える力」(朝日新聞出版)という不思議な題名のついた先生の著書を立ち読みし、大きな感銘を受けて直ちに購入しました。
 先生はこの概念を次のとおり説明します「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようがない事態に耐える能力」あるいは「性急に証明や理由を求めずに不確実さや不思議・懐疑の中にいることができる能力」。現代社会は問題に対して早く答えを出す能力を求めています。インスタントな回答で良しとする感覚が蔓延っています。「ネガティブ・ケイパビリテイ」は「そういうことをしない能力」です。「問題を問題のママで長時間持ちこたえる能力」とも言えます。
 弁護士業務でもこの概念は極めて有効です。例えば法律相談で「言われていることの意味が良く判らない」という状況は煩雑に生じます。依頼を受けた後だって同様です。このときに「ケイパビリテイ」しか頭にないと「相談者を理解できないのは悪だ」「正確な答えを出せないのはダメだ」など悩んでしまいます。が、他人の人生で生じた事実を30分程度の時間で理解できるほうが珍しいのです。受任後だって方針に悩むことは山ほど生じます。それが当たり前なのです。その前提で相談者依頼者の話をしっかり「聞く」弁護士の方が相談者や依頼者にとって有り難いのです。他者の人生で生じた出来事の意味など容易には判りませんから。
 弁護士も「ネガティブ・ケイパビリテイ」という概念の凄さを意識しましょう。
■2020年01月20日(Mon) 5者 134
 中島岳志「100分で名著・オルテガ・大衆の反逆」(NHK)において中島さんは柳田国男が好んだという以下の見事な記述を紹介しています。(70頁)
 かつて日本では「御先祖になる」という言葉が日常的に使われていた。「あなたは良い心がけだから御先祖になりますよ」とか子どもに対し「精を出して学問をして御先祖になりなさい」といった言い方です。そして人々は「御先祖になる」ため一生懸命良く生きようとしていたといいます。それはつまり自分が死んだあとも未来に仕事が待っているという感覚です。自分の未だ見ぬ孫ひ孫から、いつか「おじいちゃんは立派な人だった」「良い御先祖だ」と言われることによって自分は未来の子孫に対する規範になれるというわけです。(略)そこに表れているのは死んでからもこの世の中で一定の役割を果たし続けるという生のあり方であって、それは未来との対話、未来の他者との対話であるというのが柳田の発想なのです。
 そう。今の日本人に欠けているのは「豊かな時間感覚に身をおく」生のあり方です。現在に熱中しすぎ「過去の他者との対話」をしないことは良く指摘されることですが、もう1歩進んで「未来の他者との対話」を意識している人は極少数ではないでしょうか。「自分は先人からバトンを手渡されて次世代にバトンを渡す中間ランナーに過ぎない」。その感覚を持つとき、人は渡されたバトンの重さを感じるとともに次に渡すバトンの質を意識することになります。
 私も先が見えてきて、未来の子孫に対する規範を考えるようになりました。未だ観ぬ孫たちから「おじいちゃんは立派な人だった」と言われるのが嬉しいことであるのと同様、未来の若手法曹から「良き先輩法曹であった」と言っていただけることがあれば、こんなに嬉しいことはありません。そのためにも自分に出来ることを少しずつ積み重ねていきたいと思います。
■2020年01月10日(Fri) 芸者 133
 石原荘一郎「大人養成講座」(扶桑社)に以下の記述があります。
 この本の目指すところは「手段としての大人」の養成に他なりません。本来、大人になるということは自分の感情を無理に抑えることでもなければ、世の中に媚びを売り続けることでもないはずです。しかし、大人のテクニックを身に付けること自体が目的になってしまうと「自分」の存在はどんど縮んで行く一方で、しまいには袋小路に入り込み、大人であることが苦痛以外の何物でも無くなってしまうでしょう。そんなことなら大人になんかならないほうがよっぽどマシです。ところが、大人のテクニックを手段として使いこなすことが出来れば、日常で起こる種々雑多なトラブルに振り回されない「余裕の心」や自分の愚かさも他人の愚かさも笑って飲み込んでしまえる「優しい心」や生きるということが宿命的に持つ恥ずかしさを自覚できる「おおらかな心」や他人の痛みや思いやりを敏感に感じ取ることが出来る「豊かな心」や自分の意思をきっちりと伝える「強い心」といったものが身について、ちょっと大げさに言えば「自由と平和」に満ちた心境を保ち続けることが出来るはずなのです。(243頁)
 私は学生時代に「目的としての大人」に対し激しい嫌悪感を持っていました。大人になんかならないほうがよっぽどマシだと真剣に思っていました。しかし今の私は(大人としてのテクニックなど持ちあわせていませんが)「手段としての大人」を目指しています。何故なら弁護士業務は「大人」でないと出来ないからです。それは自分の感情を無理に抑えることではないし世の中に媚びを売ることでもありません。無理難題を受け流せる軽さ・自分や相手の失敗を飲み込める余裕・欲望を肯定できる懐の深さ・痛みを共感できる優しさ・それでいて自分の意思を明確に表現できる強さ。これらを併せ持つ「手段としての大人」に私は憧れています。
 本当の「大人」は自分が幸福であるだけでなく、周りの人をも幸福にするはずです。
■2020年01月06日(Mon) 易者 133
 村上春樹さんは河合隼雄先生(ユング派精神分析家)がよく口にしていたオヤジギャグを「悪魔祓い」だったと表現しています(「職業としての小説家」スイッチ・パブリッシング)。
 河合先生は臨床家としてクライアントと向かい合うことで、魂の奥の暗い奥底まで、その人と一緒に降りていきます。それは往々にして危険を伴う作業になります。(略)そのような場所で糸くずのようにべったりと絡みついてくる、負の気配・悪の気配を振り払うためには出来るだけくだらない・ナンセンスな・駄洒落を口にしないわけにはいかなかった。(303頁)
 「悪魔祓い」と言えば、オカルト映画の古典「エクソシスト」(1973)が著名です。
 女優のクリスは映画撮影のためワシントンに滞在していたが、1人娘リーガンの異変に気付いた。その声は邪悪な響きを帯び形相も怪異なものに豹変したうえ荒々しい言動は日を追って激しくなり、ついに医者からも見放される。その矢先、友人のバーク監督がクリス宅で殺害される事件が発生し、キンダーマン警部補が捜査に乗り出す。悪魔はリーガンに十字架で自慰行為をさせ、バークの声を使ってクリスを嘲笑する。娘が悪霊に取り憑かれたと知ったクリスはカラス神父に悪魔払いを依頼する。悪魔憑きに否定的なカラスは調査を進めていくうちにリーガン自身からの救済メッセージを発見する。カラスは悪魔払いの儀式を決意し、大司教に許可を依頼する。儀式主任には悪魔払いの経験があるメリン神父が選ばれた。2人の神父はリーガンから悪霊を追い払うための壮絶な戦いに挑む。(ウィキペデイアより引用)
 キリストによる「悪魔祓い」はマルコ福音書にも記述されています。異端というわけではないようです。映画でも神父は「キリストの名において汝を滅ぼす」と宣言しています。
 私もオヤジギャグを連発するときがあります(芸者82・85・88等10回連載)。それは絡みついてくる「負の気配・悪の気配」を振り払う<悪魔祓い>だったのでしょうか?